現在、11月27日。
先日、友人と話をしていたら、「世界の神話百科」という本を図書館で借りてみて読んだら面白かった、と言っていた。私は神話などには今迄興味がなかったが、いい趣味をしていると思った。彼は北欧メタルへの造詣を深める為に読んだらしい。その動機がまた面白かった。まあ動機もいいのだが、単純に「世界の神話百科」を読んだ、と聞いただけで彼と友達になって良かった、と思った。私は独断と偏見により、他者の本の趣味で知的レベルを測る。他者の家に行ってまず見るのは本棚だ。本棚を見たり読書傾向を聞いたりすることで、相手と仲良くなれるかどうかが大体判る。そして外れた例がない。今、私が住んでいる場所は元々はうちのがひとり暮らしをしていた部屋だ。初めてここに来たとき、当然本棚をまじまじと観察し、「拷問全書」「死刑全書」「自殺全書」が並んでいるのを見て、長く付き合えそうだ、と思ったものだ。読書傾向が余りに違う者、特に私がつまらないと思う本を愛読している者とは仲良くなれない。過去に週プロを愛読している者と付き合ったことがある。続かなかった。他者の家の本棚を見て感銘を受けたのは、某大学の助教授の家と某ライターの家である。そもそも両者の家には山のように本があった。因って、数打ちゃあたる的に私の興味をそそる本も多かった。それよりも大事なことは、趣味が悪いなあ、と思わされる本がなかったことだ。某大学助教授や某ライターとは今は疎遠だが、あの本棚と読書量は今でも凄いと思う。
某ライターはその分野では圧倒的な人気を維持している人である。私も某ライターの文章がとても好きだった。今はその分野から足を遠ざけているので読んではいないが、あの独特の文体は変わっていないだろう。某ライターにネタ帳を見せてもらったことがある。今でもそのネタ帳は増え続けているのかどうかは知らないが、きっと相当な冊数になっていると想像している。ライターの名を伏せるのでネタ帳の中身を書いてしまおう。某ライターは毎日本を読んでいた。その多数の本の中で、気に入った文章の抜書き。その集大成がネタ帳だった。独特の文体とは似ても似つかない本を多数読んでいた。本を読み、その本の数々から様々な影響を受けている筈だ。けれども文体に影響は見られない。これは凄いことだ。人間は影響を受け易い動物であるのに独自の路線への影響を他者に感じさせないことは至難の業だと私は思う。そしてそれは、他者の書いた本から受けた影響を自らの中できちんと消化・昇華できていることの証明に他ならないのではないか。
彼らの本の読み方は、所謂乱読である。私の本の読み方とは大きく違う。私は手に取った本を気に入れば、その作家の書いたものを全て読もうとする。読もうとするだけでなく、実際に読む。すると少なからずその作家の文体に影響を受けてしまう。近年私が好んで読んでいるのは、新本格と括られる日本のミステリだ。この日記にもそれら作家の文体の影響が大きく出てしまっていると実感している。昔の私の文体は今とはかなり違っていた。学生時代からライター稼業をしていた頃、私の文体は誰にも似ていないと言われていた。しかし気付いてしまった。私の当時の文章は、SFから脱した新井素子の言葉遣いに似ていたのだ。「くますけと一緒に」「おしまいの日」を偶然読んで、気付いてしまった。文体そのものは違う。けれど言葉の選択がかなり似通っていた。句読点の使い方も似ていた。「チグリスとユーフラテス」がその印象を決定付けた。誰かの影響を読者に簡単に感じさせる文章は書きたくないと思う。その思いから今、試行錯誤している最中だ。
記名ライターにとって最強の物は、その一文を、その一言を使うだけで、この人の文章だ、と読者に思わせる文章・一言を会得することだろう。上記某ライターはそれを持っている。私は記名ライターをしていた時期よりも無記名ライターをしていた時期の方が長かった。記名ライターの強みは、無記名ライターにとって禁忌である。無記名であるからにはライターの味を出してはならないのだ。読み易く且つ誰が書いたかを想像させない文章が要求された。無記名ライターとして何かを書くからにはその要求に答えなければならない。なので不本意ながら特長を感じさせない文章を書く必要に迫られた。記名ライターになってからは、その分野にありながら違う分野の話を持ってくることで独自性を見出した。ずるい手法である。違う分野の話を書きつつ、独自の言葉の選択や文体を駆使していたつもりだ。ところが、蓋を開けると新井素子……。独自ではない。苦悩した。今書いているこの日記は、新本格ミステリ作家の影響が強いが、その中の誰かに似ている文章ではないとは思う。だが、独自の文章であると思いつつ新井素子の影響を受けているような文章を書いていた過去がある故に、この文章によく似た文章で何かを綴っている作家やライターがいる可能性は否定できない。その作家やライターの存在を、昔の私が寡聞にして新井素子の文体を把握できていなかったかのように、今の私が知らないだけかもしれない。
上記某ライターは非常に得をしている。そのライターの名を出せば、知っている者は或るふたつの単語をまず思い出す。そのうちのひとつは、確かにそのライター独自の言い回しである。しかしもうひとつはかなり前からいろいろな人に使われてきた言い回しだ。若く且つ知識量の足りない読者は、その両方を某ライター独自の物だと勘違いしている。後者の言い回しをも独自の物だと思わせてしまうだけの力のある某ライターなのだ。恐らく私はもう、その某ライターと同じ土俵で文章を書くことはないだろう。その分野に興味が再び戻ることはなさそうだというのがひとつ。私よりも圧倒的に文章力・表現力・観察眼に長けたライターが数多いるというのがひとつ。更に個人的な苦い思い出が絡まる。或る大御所に編集者を紹介してもらい、その分野のライターとしての登竜門的な本に書かせてもらう機会があった。3〜4回のダメ出し・書き直しを経て……没になった。その本が発売され、私が書くべきページだったところを見ると知人の知人が書いていた。客観的に見て、私の書いたものの方が優れていると思った。紹介してくれた方に私の最終稿を送り、感想を聞いた。私と同意見だった。そして私の原稿が没になった理由は、婚期を逃した30代独身女性って奴ぁ! と思わせられるものだった。またそんな編集者だと知っていつつ私に紹介したその大御所にもやや腹が立った。出版業界なんてどこも似たり寄ったりで汚いものである。それでも尚戻りたい気持ちがあるのは、私が持つ特技が唯一活かせる業界だからだ。戻る際には同業界でも少しでも綺麗な分野に戻りたく思う。
先日、友人と話をしていたら、「世界の神話百科」という本を図書館で借りてみて読んだら面白かった、と言っていた。私は神話などには今迄興味がなかったが、いい趣味をしていると思った。彼は北欧メタルへの造詣を深める為に読んだらしい。その動機がまた面白かった。まあ動機もいいのだが、単純に「世界の神話百科」を読んだ、と聞いただけで彼と友達になって良かった、と思った。私は独断と偏見により、他者の本の趣味で知的レベルを測る。他者の家に行ってまず見るのは本棚だ。本棚を見たり読書傾向を聞いたりすることで、相手と仲良くなれるかどうかが大体判る。そして外れた例がない。今、私が住んでいる場所は元々はうちのがひとり暮らしをしていた部屋だ。初めてここに来たとき、当然本棚をまじまじと観察し、「拷問全書」「死刑全書」「自殺全書」が並んでいるのを見て、長く付き合えそうだ、と思ったものだ。読書傾向が余りに違う者、特に私がつまらないと思う本を愛読している者とは仲良くなれない。過去に週プロを愛読している者と付き合ったことがある。続かなかった。他者の家の本棚を見て感銘を受けたのは、某大学の助教授の家と某ライターの家である。そもそも両者の家には山のように本があった。因って、数打ちゃあたる的に私の興味をそそる本も多かった。それよりも大事なことは、趣味が悪いなあ、と思わされる本がなかったことだ。某大学助教授や某ライターとは今は疎遠だが、あの本棚と読書量は今でも凄いと思う。
某ライターはその分野では圧倒的な人気を維持している人である。私も某ライターの文章がとても好きだった。今はその分野から足を遠ざけているので読んではいないが、あの独特の文体は変わっていないだろう。某ライターにネタ帳を見せてもらったことがある。今でもそのネタ帳は増え続けているのかどうかは知らないが、きっと相当な冊数になっていると想像している。ライターの名を伏せるのでネタ帳の中身を書いてしまおう。某ライターは毎日本を読んでいた。その多数の本の中で、気に入った文章の抜書き。その集大成がネタ帳だった。独特の文体とは似ても似つかない本を多数読んでいた。本を読み、その本の数々から様々な影響を受けている筈だ。けれども文体に影響は見られない。これは凄いことだ。人間は影響を受け易い動物であるのに独自の路線への影響を他者に感じさせないことは至難の業だと私は思う。そしてそれは、他者の書いた本から受けた影響を自らの中できちんと消化・昇華できていることの証明に他ならないのではないか。
彼らの本の読み方は、所謂乱読である。私の本の読み方とは大きく違う。私は手に取った本を気に入れば、その作家の書いたものを全て読もうとする。読もうとするだけでなく、実際に読む。すると少なからずその作家の文体に影響を受けてしまう。近年私が好んで読んでいるのは、新本格と括られる日本のミステリだ。この日記にもそれら作家の文体の影響が大きく出てしまっていると実感している。昔の私の文体は今とはかなり違っていた。学生時代からライター稼業をしていた頃、私の文体は誰にも似ていないと言われていた。しかし気付いてしまった。私の当時の文章は、SFから脱した新井素子の言葉遣いに似ていたのだ。「くますけと一緒に」「おしまいの日」を偶然読んで、気付いてしまった。文体そのものは違う。けれど言葉の選択がかなり似通っていた。句読点の使い方も似ていた。「チグリスとユーフラテス」がその印象を決定付けた。誰かの影響を読者に簡単に感じさせる文章は書きたくないと思う。その思いから今、試行錯誤している最中だ。
記名ライターにとって最強の物は、その一文を、その一言を使うだけで、この人の文章だ、と読者に思わせる文章・一言を会得することだろう。上記某ライターはそれを持っている。私は記名ライターをしていた時期よりも無記名ライターをしていた時期の方が長かった。記名ライターの強みは、無記名ライターにとって禁忌である。無記名であるからにはライターの味を出してはならないのだ。読み易く且つ誰が書いたかを想像させない文章が要求された。無記名ライターとして何かを書くからにはその要求に答えなければならない。なので不本意ながら特長を感じさせない文章を書く必要に迫られた。記名ライターになってからは、その分野にありながら違う分野の話を持ってくることで独自性を見出した。ずるい手法である。違う分野の話を書きつつ、独自の言葉の選択や文体を駆使していたつもりだ。ところが、蓋を開けると新井素子……。独自ではない。苦悩した。今書いているこの日記は、新本格ミステリ作家の影響が強いが、その中の誰かに似ている文章ではないとは思う。だが、独自の文章であると思いつつ新井素子の影響を受けているような文章を書いていた過去がある故に、この文章によく似た文章で何かを綴っている作家やライターがいる可能性は否定できない。その作家やライターの存在を、昔の私が寡聞にして新井素子の文体を把握できていなかったかのように、今の私が知らないだけかもしれない。
上記某ライターは非常に得をしている。そのライターの名を出せば、知っている者は或るふたつの単語をまず思い出す。そのうちのひとつは、確かにそのライター独自の言い回しである。しかしもうひとつはかなり前からいろいろな人に使われてきた言い回しだ。若く且つ知識量の足りない読者は、その両方を某ライター独自の物だと勘違いしている。後者の言い回しをも独自の物だと思わせてしまうだけの力のある某ライターなのだ。恐らく私はもう、その某ライターと同じ土俵で文章を書くことはないだろう。その分野に興味が再び戻ることはなさそうだというのがひとつ。私よりも圧倒的に文章力・表現力・観察眼に長けたライターが数多いるというのがひとつ。更に個人的な苦い思い出が絡まる。或る大御所に編集者を紹介してもらい、その分野のライターとしての登竜門的な本に書かせてもらう機会があった。3〜4回のダメ出し・書き直しを経て……没になった。その本が発売され、私が書くべきページだったところを見ると知人の知人が書いていた。客観的に見て、私の書いたものの方が優れていると思った。紹介してくれた方に私の最終稿を送り、感想を聞いた。私と同意見だった。そして私の原稿が没になった理由は、婚期を逃した30代独身女性って奴ぁ! と思わせられるものだった。またそんな編集者だと知っていつつ私に紹介したその大御所にもやや腹が立った。出版業界なんてどこも似たり寄ったりで汚いものである。それでも尚戻りたい気持ちがあるのは、私が持つ特技が唯一活かせる業界だからだ。戻る際には同業界でも少しでも綺麗な分野に戻りたく思う。
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