理想形

2003年11月24日 雑感・所感
 これを記しているのは11月25日。

 周囲を見回すと当然ながら私よりも優れた人間の方が多い。そして私もかくありたいと思う。もっと愛想よく、もっとしっかりと、もっと清潔に、もっと我慢強く、もっとてきぱきと、もっと利口に。見習って自身を向上させたいが、私が各方面に頑張るときっとこうなるだろう。いつもにたにたと笑い、やたら厳格で、とことん潔癖に、物凄く頑固で、ときどき機敏で。利口は真似しようと思ってできるものではないので除外し、その他を並べてみた。大変に気味が悪く、決してお近づきになりたくなさそうな人間像になってしまった。歪である。ただでさえ歪なのに更に各欠点を助長させそうだ。全部を取得したいと思うからいけないのだろうか。けれども欲張りな私は、どれかに絞って真似る・伸ばすなどはできそうもない。私に最も足りないものは何だろう。足りないものが多過ぎて、そもそも私がダメ、というような全否定に陥りそうである。

 視点を変える。うちには小動物が2匹いる。その1匹が私の思う理想的な姿形と性格をしている。しなやかで触れると暖かく、器量が良く、人見知りせずに誰とでも仲良くなれ、知性的な瞳でじっと人を見詰める。意思表示はしっかりとし、甘え上手だが突き放したところもあり距離の取り方が適切で、我侭放題に見せつつも思いやりがある。わたしゃ女の天才なのさ、と言ったのは仲代桂子だが、この1匹の方が私には女の天才に思える。先日、近所のペットショップで同種の子たちを見たが、ある子は愛想はいいが知性が足りなさそうであり、ある子は知性は満ち満ちていたが愛想が足りなかった。うちの子は両方を満たして余りある。飼い主莫迦・莫迦飼い主と思われそうだが、そう言い切れはしないだろう。私の周囲のこの種類がさほど好きではない者たちも、男女を問わず皆この1匹の虜となっている。可愛い、美声、利口など様々な褒め言葉をこの1匹に浴びせて賛美するのだ。この1匹は、人を魅了する要素を凝縮した生き物ではないか。この1匹の名は、生まれ月の誕生石をもじった物である。小洒落ていつつも呼びやすく、可愛らしい名前だと我ながら思う。そしてその名に相応しく育ってくれた。私がひとり暮しをしていた頃、よく友人らに語っていたことがある。彼氏は私よりも小動物らを大切にしてくれる人じゃないと嫌だ。うちのは私よりもこの小動物らの方が可愛いらしい。特にこの1匹にはメロメロである。この1匹もうちののことを彼氏だと思っており、私のことを使用人だと思っている様子がありありと見て取れる。因みにもう1匹にとっても私は使用人である。悲しい。

 そんな訳で、あらゆる魅力を詰め込んだこの1匹から人を惹き付ける秘訣を盗みたく、いろいろと試行錯誤しているのだがなかなか上手くいかない。種は違うが魅力を言葉にできるということは、その言葉を人間に当て嵌めて我が身で表現できればいいのだ。……困難。私が育てたのだからこの1匹が兼ね備えた魅力は、私の中の眠れる魅力だと思っていたのだが甘かった。私はそんなに可愛くも賢くもないし、表現力に至っては足元にも及ばない。これが天賦の才というものか。仲代桂子は幼少時から並々ならぬ努力をして女の天才になった。けれど彼女は強すぎる。うちの1匹にある隙がない。隙とは男女問わずモテの最大要素のひとつである。モテ要素とは彼氏彼女を作る際にも必要ではあるがそれだけではなく、円滑な人間関係、特に第一印象を決めるに重要な要素である。私はうちのによりモテたく、また円滑な人間関係を築きたいので周囲の人間やこの1匹の魅力や長所を分析している。分析はかなりできていると思うのだが、それを自身にトレースすることの難しさはこの上ない。

 昨日来た憧れの友人がトイレに立ったとき、私はうちのにこう言った。彼女は私の思う女の子の理想形。うちのは私にこう言った。真似すればいいじゃん。簡単に言ってくれるが、それは気まずかろう。人をそのまま真似るなら遠い人でなければならない、というのが持論である。近しい相手だと真似られていることに気付いたとき、真似ていることに気付かれたとき、お互いに非常に嫌な気分になると思うのだ。なので彼女の魅力を直接真似ようとは思わない。また真似ようと思って真似られるものでもない。これは女の天才である、うちの小動物の1匹にも同じことが言える。私も気付いてはいるのだ。各々の魅力は真似ようと思って真似られるものではないし、また真似できたところでそれは他者の魅力のトレースでしかなく、そこから自身のオリジナルにしていくのは困難であることを。ならば自分を魅力的な人間にしていく為にはどうすればいいか。既に持っている魅力を他の欠点が霞むくらいに伸ばしつつ、欠点を少しずつ直していけばいい。

 そして自身を振り返る。私が既に持っている魅力とは何だろう。直すべき欠点は何だろう。後者は数限りなく思いつくが、前者がさっぱり思い付かない。他者に褒められる箇所がない訳ではない。しかしそれらが自分で納得できない。褒められても自分のそれは大したことがないと思ってしまう。卑下しているつもりはない。完璧主義の悪しき点がここにも表れてしまっているのだ。褒められれば有難うと答える。けれど内心では、まだまだなのに……、と思う。まだまだということは、どこかに到達点があるかのようだが、そんなものはない。どこまで行けば自身の納得が伴うのか判らない。そんな見果てぬ先を見て、まだまだと落ち込む。長らく書いていないが、履歴書に自分の長所を書く欄がある。昔、この欄にとても悩まされた。思いつかないのである。悩みに悩んで、私の短所の表現の角度を変え、長所らしく書くようになった。角度を変えれば、言葉を変えれば、長所は短所に、短所は長所に置換可能なのだ。私の脳は自動卑下置換機能が働いているのだろうか。他者を見て、褒められて育った人間は強い、と思う。私は小動物らが悪さをしない限りは褒めて育てた。褒められると自信がつくのは種に関係ないのだろう。愛されている実感がある生き物は、自然と自分を大切にできるようになる。他者への愛と自己愛のバランスが取れている人は見ていて気持ちがいい。私も上手いバランスを見つけたい。呪詛が解けたとき、それが見つかる気がする。早く解放され、自身を愛せるようになりたい。

BGM/アルバム「押絵と旅する男」

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