平和な日々でも八方塞
2003年11月22日 家族・メンヘル・健康など 昨日今日は久々に平和な日だった。本当にどれくらいぶりだろう。最近はほぼ毎日、腹が立つことか悲しくなることばかりで埋め尽くされていたので、余りの平和さに却って落ち着かなくなったり。今日は朝起きて、昨夜読みかけだった某巨大掲示板の某板某スレを全て読み、もう一度寝て、起きて昨日の夕飯の残りで昼食を食べ、コンビニにおやつと雑誌を買いに行き、2時間かけて夕食を作り、現在に至る。凄く平和。その間、うちのとの喧嘩もなかった。会話もテレビを見つつディズニーランド行きたいね、雑誌を捲りつつこの服かわいいね、など。うちのの風邪も1日で回復。他所の家の休日は大概こんな感じなのだろうか? 2時間かけた夕食、いきなりうちのから、美味しい、の言葉が出てきて驚いた。おかずの大根と鶏の煮物に対してである。簡単そうに見えて実はちょっと手間のかかった料理なので解せなくはないが、しかしこう、もっと見た目からして手が込んでいる風の物に賞賛を得たいと、やはり思う。贅沢なのだろうか。
こうも平和だと現実味がない。諸々の問題が消え去った訳ではないのだが、取り敢えず平和な2日間。なので久々に某巨大掲示板専用ブラウザで既得スレ巡回。すると以前は伸びの悪かったスレがかなり伸びていた。10月22日付の日記で触れたスレである。上に、平和だと現実味がない、と書いたが相変わらず私には平和でなくとも現実味は薄い。スレが伸びていたということは、そのような者が多数いたことに他ならない。一通り読んでみた。どの人もスレの基本となっている虚構内存在の自覚は持っている。けれど、その虚構の設定や自覚の仕方が人によってかなり違う。自分だけが虚構内存在と思っている人、皆が虚構内存在だと思っている人。自分がいる虚構の世界には確固たる支配者的存在があると思っている人、支配者的存在は感じていない人。本当に様々だ。共通点は、自分は虚構内の存在である、と意識している点しかないと言っても過言ではない。どうも私のように夢と現の区別がつかないという人は少ないようだ。
・夢と現の区別が曖昧
・考え事をしているときなどに、虚構の世界の存在が入り子式になっているのでは? という疑問が湧く
・支配者的存在は感じない
・自分以外は皆宇宙人ではないか? 自分以外は皆テレパシーで意思疎通ができているのではないか? といったSFじみた疑問も持ち続けている
・どこかにれっきとした、現実の世界、は存在している
これらは全て子供の頃から取り付いて離れない事柄であり、項目毎に関連性がなかったり矛盾があったりするのも承知である。下から2番目の考えは特にデンパな香ばしさが感じられるだろう。デンパではない……と思いたいが。因みに統失患者のような破滅妄想はない。現実感が乏しいということに焦点をあてて主治医に相談したこともあるが、離人症ではないらしい。離人症は自分が自分でないような感覚を強く継続して持つ病気なので、私がそうでないのはまあ解る。自分は自分だという認識はある。けれど、現実が現実でないような感覚、というのは何なのだろう。誰かしらは、現実、というものをきちんと知っている筈だ、と思っている。その人が誰かは判らない。それは判らないままでもいいがその、現実、を知っているという根拠が知りたい。根拠が解れば私にも現実が認識できるのではないか、夢と現の区別がつくのではないかと思う。
また何度も書いてきている固執的完璧主義について、それっぽいスレを発見したので読んでみた。ついでに強迫性障害のテストもしてみた。テストの結果は、要受診。これ迄私の事柄による0か100か思想は単に固執的完璧主義というものだとしか思っておらず、0と100の意味するところをよく考えてはいなかった。100は解る。完璧でなければならない、という強迫観念に基づくものだ。では0は何なのか。スレを読んで解った。0は、100でないなら0も99も同じ→その物事に手を出さないことで0の完璧を求める、ということだったらしい。私は固執的と自覚があるように、事柄によってこの症状が出ているが、気にならないところは徹底的に気にならない。もしかしたらこの、徹底的に気にならない、というのも0方向の完璧主義なのかもしれない。要受診、と出たので主治医に相談してみようと思ったが、やめた。私が病気や薬についていろいろ調べることを元々良くは思っていない主治医だし、強迫性障害の話を持ち出しても、また何か要らぬ知識をつけてきたな、くらいにしか思われなさそうである。なので本当は医師の指示の下に実践すべきである暴露反応妨害法という行動療法にひとりで取り組んでみようかと思った。が、第一歩を踏み出すのにかなりの勇気が必要である。暴露妨害法とはその事柄に敢えて取り組み、しかも満足いかなくても中断するという行動に意識を慣らしいてくものである。大変に効果のある行動療法らしいけれども、最初はかなり苦しいらしい。私の固執的完璧主義が最もよく現れている入浴。これを時間で区切って納得が行かなくても無理矢理短時間で済ませてみようかと思ったのだが、とても怖い。今、これを20分と設定してやってみるとする。洗顔をして、プレシャンプーをし、シャンプーをし、両腕の垢すり終了辺りでもう20分経っていそうだ。こんな半端な状態で入浴を切り上げるなんて不可能だ。半端な入浴に嫌悪感を感じそうだし、それによって抑うつ症状が増すのが目に見えている。けれどやらなければ私はいつまで経っても、毎日短時間入浴する、ということができなさそうである。いつから取り組むべきか。と考えている時点で、完璧主義が抜けていない。取り組むからには完璧にその療法を敢行しようとしていることに他ならず、完璧に敢行できなければやらない方がマシ、と。いつかは踏み込まねばならないのだろうが……。
中途半端、というものが判らないのだ。ダメと完璧は判る。しかし中途半端とはどの辺りなのか。6割や8割の場所が判らない。ここでまた完璧な6割や完璧な8割を目指してしまっていることになってしまっている。どこ迄も続く悪循環。ここが虚構内だとはっきり認識できていれば、いい意味での適当な行動や思考ができるのかもしれない。ところが私の現実感のなさの根底は、ここは夢か現か、なのだ。夢ならば中途半端な入浴も可能そうだ。けれどもしここが現実なら中途半端な入浴は絶対に嫌だ。どちらから解決していけばいいのか判らない。どちらも解決の糸口は見つからない。いい意味での適当ができる人は凄いと思う。きっとそういう人は夢と現の区別もついているのだろう。メンヘル系の病気は複雑に絡まり過ぎている。知識がなければ良かったのだろうか。観念的事項を考えることが嫌いになれればいいのだろうか。ついた知識を消すことは難しい。観念的事項を考えない生き方は想像できない。八方塞である。折角の平和な日々もこのような苦悩で費やされることに勿体無さも感じる。この貧乏根性がまた嫌だ。
こうも平和だと現実味がない。諸々の問題が消え去った訳ではないのだが、取り敢えず平和な2日間。なので久々に某巨大掲示板専用ブラウザで既得スレ巡回。すると以前は伸びの悪かったスレがかなり伸びていた。10月22日付の日記で触れたスレである。上に、平和だと現実味がない、と書いたが相変わらず私には平和でなくとも現実味は薄い。スレが伸びていたということは、そのような者が多数いたことに他ならない。一通り読んでみた。どの人もスレの基本となっている虚構内存在の自覚は持っている。けれど、その虚構の設定や自覚の仕方が人によってかなり違う。自分だけが虚構内存在と思っている人、皆が虚構内存在だと思っている人。自分がいる虚構の世界には確固たる支配者的存在があると思っている人、支配者的存在は感じていない人。本当に様々だ。共通点は、自分は虚構内の存在である、と意識している点しかないと言っても過言ではない。どうも私のように夢と現の区別がつかないという人は少ないようだ。
・夢と現の区別が曖昧
・考え事をしているときなどに、虚構の世界の存在が入り子式になっているのでは? という疑問が湧く
・支配者的存在は感じない
・自分以外は皆宇宙人ではないか? 自分以外は皆テレパシーで意思疎通ができているのではないか? といったSFじみた疑問も持ち続けている
・どこかにれっきとした、現実の世界、は存在している
これらは全て子供の頃から取り付いて離れない事柄であり、項目毎に関連性がなかったり矛盾があったりするのも承知である。下から2番目の考えは特にデンパな香ばしさが感じられるだろう。デンパではない……と思いたいが。因みに統失患者のような破滅妄想はない。現実感が乏しいということに焦点をあてて主治医に相談したこともあるが、離人症ではないらしい。離人症は自分が自分でないような感覚を強く継続して持つ病気なので、私がそうでないのはまあ解る。自分は自分だという認識はある。けれど、現実が現実でないような感覚、というのは何なのだろう。誰かしらは、現実、というものをきちんと知っている筈だ、と思っている。その人が誰かは判らない。それは判らないままでもいいがその、現実、を知っているという根拠が知りたい。根拠が解れば私にも現実が認識できるのではないか、夢と現の区別がつくのではないかと思う。
また何度も書いてきている固執的完璧主義について、それっぽいスレを発見したので読んでみた。ついでに強迫性障害のテストもしてみた。テストの結果は、要受診。これ迄私の事柄による0か100か思想は単に固執的完璧主義というものだとしか思っておらず、0と100の意味するところをよく考えてはいなかった。100は解る。完璧でなければならない、という強迫観念に基づくものだ。では0は何なのか。スレを読んで解った。0は、100でないなら0も99も同じ→その物事に手を出さないことで0の完璧を求める、ということだったらしい。私は固執的と自覚があるように、事柄によってこの症状が出ているが、気にならないところは徹底的に気にならない。もしかしたらこの、徹底的に気にならない、というのも0方向の完璧主義なのかもしれない。要受診、と出たので主治医に相談してみようと思ったが、やめた。私が病気や薬についていろいろ調べることを元々良くは思っていない主治医だし、強迫性障害の話を持ち出しても、また何か要らぬ知識をつけてきたな、くらいにしか思われなさそうである。なので本当は医師の指示の下に実践すべきである暴露反応妨害法という行動療法にひとりで取り組んでみようかと思った。が、第一歩を踏み出すのにかなりの勇気が必要である。暴露妨害法とはその事柄に敢えて取り組み、しかも満足いかなくても中断するという行動に意識を慣らしいてくものである。大変に効果のある行動療法らしいけれども、最初はかなり苦しいらしい。私の固執的完璧主義が最もよく現れている入浴。これを時間で区切って納得が行かなくても無理矢理短時間で済ませてみようかと思ったのだが、とても怖い。今、これを20分と設定してやってみるとする。洗顔をして、プレシャンプーをし、シャンプーをし、両腕の垢すり終了辺りでもう20分経っていそうだ。こんな半端な状態で入浴を切り上げるなんて不可能だ。半端な入浴に嫌悪感を感じそうだし、それによって抑うつ症状が増すのが目に見えている。けれどやらなければ私はいつまで経っても、毎日短時間入浴する、ということができなさそうである。いつから取り組むべきか。と考えている時点で、完璧主義が抜けていない。取り組むからには完璧にその療法を敢行しようとしていることに他ならず、完璧に敢行できなければやらない方がマシ、と。いつかは踏み込まねばならないのだろうが……。
中途半端、というものが判らないのだ。ダメと完璧は判る。しかし中途半端とはどの辺りなのか。6割や8割の場所が判らない。ここでまた完璧な6割や完璧な8割を目指してしまっていることになってしまっている。どこ迄も続く悪循環。ここが虚構内だとはっきり認識できていれば、いい意味での適当な行動や思考ができるのかもしれない。ところが私の現実感のなさの根底は、ここは夢か現か、なのだ。夢ならば中途半端な入浴も可能そうだ。けれどもしここが現実なら中途半端な入浴は絶対に嫌だ。どちらから解決していけばいいのか判らない。どちらも解決の糸口は見つからない。いい意味での適当ができる人は凄いと思う。きっとそういう人は夢と現の区別もついているのだろう。メンヘル系の病気は複雑に絡まり過ぎている。知識がなければ良かったのだろうか。観念的事項を考えることが嫌いになれればいいのだろうか。ついた知識を消すことは難しい。観念的事項を考えない生き方は想像できない。八方塞である。折角の平和な日々もこのような苦悩で費やされることに勿体無さも感じる。この貧乏根性がまた嫌だ。
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