私が国文学を専攻したのは、言うまでもなく本が好きだったからだ。PDの自覚症状発覚から近所の内科を経て現在の主治医の元に通い出し、1年弱となる。自覚症状は今年の1月から現れ、服薬で発作はかなり治まりつつはあるものの、それ以来、未だ集中力を長時間保つことが困難になっている。因って600頁近くもある文庫本を1日で読み上げたのは久々である。読んだのは多島斗志之著「症例A」。このミス2000年度9位ということで、ここ数年は毎年購入しているこのミス2001年度版を取り出してみたら、確かにランクインして紹介されていた。2000年末、私はこの本に興味を持たなかったことが解った。文庫派故に、今回の文庫化待ちをしていたという訳でもない。ただ、近所の書店で平積みされているのを見、背表紙の簡単な文章を読み激しく興味を持った。しかし購入に至る迄に数ヶ月を要した。定価724円を惜しんでいたのではない。そのくらいの金銭はある。購入迄に時間が必要だったのは、購入の決心がなかなかつかなかったのだ。勘と言うべきか、それとも本能と言うべきか。この本は読んではいけない、という勘だか本能だかが私を躊躇わせていた。この本で取扱われているのは精神病である。中に出てくる主要病名に、私の諸事情が入っていた。だから好奇心を持った。同時に警戒心も芽生えた。今回購入したのは、好奇心が遂に勝ってしまったからだ。本の内容についてはミステリなので敢えてここでは触れない。
私の本の読み方は少し変わっているらしい。特に同じミステリ愛好者には、あり得ない読み方をしている、と言われることもある。まず後書や解説を読み、小説の結末を読み、それから冒頭部分から通読する。純文学でもミステリでもその他でも、どれもこの順番は同じである。この順番を狂わせて読むことにも特に抵抗はないので、こう読まねば、という強迫症状ではない。癖のようなものか。ことミステリに於いては、結末を読んでからという読み方をする者は少数派であるらしい。けれど私にとっては、活字を読む、という点で本の内容に区別はない。私にとっての読書とは、活字を追うことと言ってしまってもいい。活字となった文章から情報を得ることが目的であり、内容は後からついてくるものだと昔から考えている。強迫症状と言えば、仕事での参考資料などではなく趣味としての読書に限っての話ではあるが、以前は一冊の本を手にしたら、読了する迄は他のことに手が付けられなかった。手にしたが最後、読了=使命のようになっていてどんなに内容が詰まらない物であったとしても、途中で本を置いて他のことをするのは勿論のこと、読了せずに違う本を読み出すなど論外だった。うっかりそんなことをしてしまったときには、とてつもない罪悪感に苛まれたものだ。集中力の持続が困難になってからは、この強迫観念がなくなった。良いことか悪いことかは不明だが、生活への支障は減ったので良いことなのかもしれない。
さて今日読んだこの本、諸手を挙げて著者に降参。この著者の本を読んだのは初めてだが、完成度がとにかく高い。現在治療中・独学中の私が読んでも全く違和感を覚えない内容だった。逆に知らなかった知識を得ることができた。完成度とは物語の構成もだが、著者の下調べが行き届いているということだ。上記のような読書スタンスからか、私は小説の登場人物への感情移入はまずしない。それが今回はしてしまった。いや、させられた、と言う方が正確である。私が治療中の身だからという理由だけではない。記号の持つ力とは何と恐ろしいのだろう。途中、何度トイレと布団を行き来したことか。実際に吐きはしなかったものの、嘔吐感と頭痛に襲われたのだ。半分を少し過ぎた辺りだったか、一度は読了を諦めようともした。身体への不快感も一因ではあるが、それ以上に感情への揺さぶりが強く、本を置き、号泣してしまった。自分の諸事情の未来像への必要以上な想像をかき立てられ、過去のことを少し思い出そうとしたら泪と嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。何かが思い出せない。急速に襲ってきた孤独感、不安感、恐怖心などが私をそうさせた。私の中には一部分、記憶の捏造と思われるものが存在している。本当に捏造なのかどうかは謎のままだ。解明を試みたが迷宮入りしてしまった。この本をきっかけに何かを捏造する危険性を感じた。読了した今、捏造が完了した可能性もある。捏造ではない思い出せない記憶が私を泣かせた可能性もある。真偽は判らない。そしてその確認作業が私の治療に必要かどうかも判別不能。判らない。解らない。逃げ出したい。怖い。物心ついてから大人になる迄の全ての記憶を持っている人はいるのだろうか。まずいないだろう。脳の収容能力には限界があり、不要だと脳に判断された記憶は奥へとしまわれてゆく。また時間と共に記憶が若干の変化をすることもある。これらは自然なことであり、問題は全くない。しかしその自然な脳の作業と、記憶の抜け落ちや捏造は話が違う。抜け落ちや捏造は、病気だ。作中に書かれている治療と治癒、治癒とは私が書く解寛とほぼ同意であろう、その姿勢は主治医及び私が思っているものと同じに読めた。異論を挟みたい学者や医師や患者もいるだろうが、それは私には関係がない。PD然り、諸事情然り、その他の精神疾患然り。どれも持ったままでは患者は生き難いのだ。だから治療をし、解寛を目指す。解寛とは、生き易い・生きていられる、と実感できるようになることだと私は思っている。現代は生き難い世界だ云々の話ではなく、精神衛生上の話である。心療内科・精神科・心療内科の患者は概して今の自分に生き難さを感じていると思われる。私もそのひとりだ。生き難さを自覚してしまうと、逃避願望から希死念慮や自閉傾向が生じ、余計に生き難くなる。
こういった救いを求める患者に手を差し伸べるのが専門医やカンウセラだが、私の諸事情は病院によっては病名を告げただけで、または医師やカウンセラがその診断を下した時点で追い払われることもある厄介な物だ。故に私は簡単に転院を薦めてくる者は、それだけで諸事情への理解が足りない相手だと判断する。そうでなくてもこの諸事情を持つ人間は、他者への猜疑心が突出して強い。諸事情を持つ私が言うのも可笑しな話かもしれないが、この諸事情を抱えた人間には近付かないのが最良の手段である。治療者でないならば尚更だ。近付いたとしても2者関係にならないことだ。仮に2者関係になるのなら、余程の覚悟と勉強が必要となる。この諸事情を知り自覚し、それから診断を下されて独学続行中の私は、諸事情の特徴や他者にかけ易い迷惑も把握しているつもりだ。それでも自分を制御できないときがある。内向型でなく巻き込み傾向が強い者なら、私以上に制御が困難だろう。こう書くと私が内向型と診断されたようだが、諸事情であるということしか診断は受けていないので、内向型か巻き込み型かは自分の独断でしかない。他者から見ると違って見えるかもしれないのは承知だ。私が内向型と自認しているのは、ある種の楽観と言い換えることも可能かもしれない。どちらでもいい。なんでもいい。死なないことで精一杯、という現状から抜け出せればいいのだ。が、この本を読み、今月1日付及び9日付のタイトルが、単なる洒落で済むことを今は願っている。不安が的中しなければいいのだが。尤も的中したところで、私はもう関知しない。
この本。完成度は高い。読了後の満足度もそこそこ。だが、精神疾患患者及び治療を受けていなくともその気配が自分で感じ取れる者は読まない方が吉。自身の精神が健常であるという自信のある人にしかお薦めはできない。ガリバー旅行記は未読だが、これも原書や正確な原書訳は読まない方が良さそうだ。
私の本の読み方は少し変わっているらしい。特に同じミステリ愛好者には、あり得ない読み方をしている、と言われることもある。まず後書や解説を読み、小説の結末を読み、それから冒頭部分から通読する。純文学でもミステリでもその他でも、どれもこの順番は同じである。この順番を狂わせて読むことにも特に抵抗はないので、こう読まねば、という強迫症状ではない。癖のようなものか。ことミステリに於いては、結末を読んでからという読み方をする者は少数派であるらしい。けれど私にとっては、活字を読む、という点で本の内容に区別はない。私にとっての読書とは、活字を追うことと言ってしまってもいい。活字となった文章から情報を得ることが目的であり、内容は後からついてくるものだと昔から考えている。強迫症状と言えば、仕事での参考資料などではなく趣味としての読書に限っての話ではあるが、以前は一冊の本を手にしたら、読了する迄は他のことに手が付けられなかった。手にしたが最後、読了=使命のようになっていてどんなに内容が詰まらない物であったとしても、途中で本を置いて他のことをするのは勿論のこと、読了せずに違う本を読み出すなど論外だった。うっかりそんなことをしてしまったときには、とてつもない罪悪感に苛まれたものだ。集中力の持続が困難になってからは、この強迫観念がなくなった。良いことか悪いことかは不明だが、生活への支障は減ったので良いことなのかもしれない。
さて今日読んだこの本、諸手を挙げて著者に降参。この著者の本を読んだのは初めてだが、完成度がとにかく高い。現在治療中・独学中の私が読んでも全く違和感を覚えない内容だった。逆に知らなかった知識を得ることができた。完成度とは物語の構成もだが、著者の下調べが行き届いているということだ。上記のような読書スタンスからか、私は小説の登場人物への感情移入はまずしない。それが今回はしてしまった。いや、させられた、と言う方が正確である。私が治療中の身だからという理由だけではない。記号の持つ力とは何と恐ろしいのだろう。途中、何度トイレと布団を行き来したことか。実際に吐きはしなかったものの、嘔吐感と頭痛に襲われたのだ。半分を少し過ぎた辺りだったか、一度は読了を諦めようともした。身体への不快感も一因ではあるが、それ以上に感情への揺さぶりが強く、本を置き、号泣してしまった。自分の諸事情の未来像への必要以上な想像をかき立てられ、過去のことを少し思い出そうとしたら泪と嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。何かが思い出せない。急速に襲ってきた孤独感、不安感、恐怖心などが私をそうさせた。私の中には一部分、記憶の捏造と思われるものが存在している。本当に捏造なのかどうかは謎のままだ。解明を試みたが迷宮入りしてしまった。この本をきっかけに何かを捏造する危険性を感じた。読了した今、捏造が完了した可能性もある。捏造ではない思い出せない記憶が私を泣かせた可能性もある。真偽は判らない。そしてその確認作業が私の治療に必要かどうかも判別不能。判らない。解らない。逃げ出したい。怖い。物心ついてから大人になる迄の全ての記憶を持っている人はいるのだろうか。まずいないだろう。脳の収容能力には限界があり、不要だと脳に判断された記憶は奥へとしまわれてゆく。また時間と共に記憶が若干の変化をすることもある。これらは自然なことであり、問題は全くない。しかしその自然な脳の作業と、記憶の抜け落ちや捏造は話が違う。抜け落ちや捏造は、病気だ。作中に書かれている治療と治癒、治癒とは私が書く解寛とほぼ同意であろう、その姿勢は主治医及び私が思っているものと同じに読めた。異論を挟みたい学者や医師や患者もいるだろうが、それは私には関係がない。PD然り、諸事情然り、その他の精神疾患然り。どれも持ったままでは患者は生き難いのだ。だから治療をし、解寛を目指す。解寛とは、生き易い・生きていられる、と実感できるようになることだと私は思っている。現代は生き難い世界だ云々の話ではなく、精神衛生上の話である。心療内科・精神科・心療内科の患者は概して今の自分に生き難さを感じていると思われる。私もそのひとりだ。生き難さを自覚してしまうと、逃避願望から希死念慮や自閉傾向が生じ、余計に生き難くなる。
こういった救いを求める患者に手を差し伸べるのが専門医やカンウセラだが、私の諸事情は病院によっては病名を告げただけで、または医師やカウンセラがその診断を下した時点で追い払われることもある厄介な物だ。故に私は簡単に転院を薦めてくる者は、それだけで諸事情への理解が足りない相手だと判断する。そうでなくてもこの諸事情を持つ人間は、他者への猜疑心が突出して強い。諸事情を持つ私が言うのも可笑しな話かもしれないが、この諸事情を抱えた人間には近付かないのが最良の手段である。治療者でないならば尚更だ。近付いたとしても2者関係にならないことだ。仮に2者関係になるのなら、余程の覚悟と勉強が必要となる。この諸事情を知り自覚し、それから診断を下されて独学続行中の私は、諸事情の特徴や他者にかけ易い迷惑も把握しているつもりだ。それでも自分を制御できないときがある。内向型でなく巻き込み傾向が強い者なら、私以上に制御が困難だろう。こう書くと私が内向型と診断されたようだが、諸事情であるということしか診断は受けていないので、内向型か巻き込み型かは自分の独断でしかない。他者から見ると違って見えるかもしれないのは承知だ。私が内向型と自認しているのは、ある種の楽観と言い換えることも可能かもしれない。どちらでもいい。なんでもいい。死なないことで精一杯、という現状から抜け出せればいいのだ。が、この本を読み、今月1日付及び9日付のタイトルが、単なる洒落で済むことを今は願っている。不安が的中しなければいいのだが。尤も的中したところで、私はもう関知しない。
この本。完成度は高い。読了後の満足度もそこそこ。だが、精神疾患患者及び治療を受けていなくともその気配が自分で感じ取れる者は読まない方が吉。自身の精神が健常であるという自信のある人にしかお薦めはできない。ガリバー旅行記は未読だが、これも原書や正確な原書訳は読まない方が良さそうだ。
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