現在、日付が17日に変わったばかり。

 うちのの下のお姉さんに今回の件に関して、誤解を解く為に渾身の説明をした。お姉さんは、何となくわかった、と言っていたがやはり信じられないらしい。うちのや私の話が信用できないという意味ではなく、親の言動そのものについてである。そのような言動をする人間が、まさかこの現実世界にいるとは……といったところなのだろう。テレビドラマのような展開のスピードについていけない、とも言われた。これも解る。まずこのような展開自体が類稀なこと、そして類稀な出来事が二転三転を繰り返した末に10日やそこらで決定されたこと。テレビドラマなら2クール乃至は一年、もしかしたら北の国から並みに10年以上の時間を要されただろうことが2時間ドラマに短縮されては、観客が混乱するのも無理はない。本当にそれでいいの? と何度も訊かれたこと、私が可哀相という言葉が数度出てきたこと、私の病気やうちのが抱いていた私の親への所感を初めて聞いてとても驚かれていたということのみここに記して、他の会話は割愛。

 テレビドラマのような展開のスピード。私自身やその周辺事情に於いて、他者からこのような表現をされたのは初めてではない。友人連中と近況報告をしあっているときにも言われた言葉だ。そのときは親の話だけではなく私自身の話も含めての評だった。親や私が係わる物事は奇なる物事が多く、得てしてその物事は急展開で進んでゆく。諸事情のなせる業なのだろうと今は思える。昔は何故そう評されるのか理解できなかった。現実に私の周辺で起きた物事・出来事であり、その渦中にいた私からすれば、奇でもなければ急展開でもないと感じることの方が多かったのだ。私の生い立ちに関してもそうである。他者からよく不憫がられ、何度となく可哀相という言葉を浴びせられた。それも解せなかった。どこが不憫なのだろう? 私は可哀相と思われる存在なのか? とても不思議だったので少し考えた。もしかして私が教えられてきた現実社会と、真の現実社会は物凄く乖離しているのではないだろうか。

 夜逃げ同然に生まれた土地から家族で上京したこと→ままある。親の離婚→よくある。その直後の父親の死→やや稀。親の同棲→ままある。親の再婚→よくある。養父との養子縁組→よくある。自称・普通の親に幼少時からこのように教わって、私は育った。そして孤児院などにいる子に比べれば私は恵まれている、と。周囲のクラスメイトや友人知人を見回し、よくある・ままあることが降りかかってこない人間の方が多いなあと思いつつも、ただ皆を羨んでいた。親からの刷り込みにより現実を直視できていなかったのではないか。私の生い立ちに於ける大きな出来事の数々は、実はよくあることやままあることではなかったのではないか。幼少時、子供の世界は家庭のみである。それから保育園なり幼稚園を経て義務教育に上がり、また更に進学をしていく中で数多の人たちを見てきた筈だ。けれども強力な刷り込みにより、私は数多の人々の方こそ、珍しくアクシデントのない環境に育った人々だと思っていた。呪縛が解けた今、ひとつ気付いた。数多の環境こそがよくあることであり、私の環境は稀なものだったのか。テレビドラマのような展開。スピード。こう考えると、数多のよくある環境で育った他者から見れば、そりゃあ私の話は奇であり急展開なのだろう。

 普通とは幻想である。それでも世の中は多数決の原理に従って、普通・常識などが成立している。私の親は自身のことを、普通、と私に言い続けてきていた。だから私の中では親が普通なのであり、親と違う考えを持つ自分は異常なのだと思わされてきた。あんたは異常。数え切れない程に親から言われ続けてきた呪詛。社会に出てから少しずつこの呪詛に疑念が湧いてきた。親は普通、多くの他者はもっと普通、私は異常とずっと思ってきていたけれど、ひょっとしたら親が異常、多くの他者が普通なのではないか。そうなると私はどっちだ? 異常という地盤が揺れだし、私は混乱してきた。私のことを異常と言う人もいれば、正常=普通と言う人もいた。解らない。正常=普通と言ってくれる人たちの言葉を信じたい。でも親の呪詛が私にそれを許さなかった。自己の正当性を否定され続けた。世の親はみんなこうなんだ、でももっとまともな親もいて、そういう親に育てられた子はいいなあ……思考停止。

 主治医の元に通い出し、自身の諸事情について独学し、やっと私の親や家庭環境が普通ではなかったことを認知できるようになった。可哀相は優越感。言葉そのものに嫌悪感は感じるし、この嫌悪感がなくなることはないとは思うが、しかし他者が私を見て優越感や安堵を覚える気持ちも何となくは解るようになってきた。普通の親と家庭環境の下に育った他者から見れば、異常な親や家庭環境に育った私は可哀相なのだ。全く問題性のない人間や家庭は存在していないと今でも思ってはいる。けれど、ここ迄大きく数多い問題を抱えた親や家庭は明らかに少数なのだ。異常という呪詛をかけられたまま揺るぎ続ける私の地盤。その下に確固なる異常な地盤の存在認知。揺るぐ私の地盤は今、とても緩くなっている。再度しっかりした地盤が築かれるとき、どのような形になっているのか想像も付かない。

 私の肉体の三半規管は弱い。心の三半規管も弱い。揺るぐ物の上に足を乗せると、どちらもすぐに酔ってしまう。27年の歳月を経てやっと開眼。見えてきた世界は刷り込まれていた世界と余りにも違い過ぎている。呪詛と現実の狭間で混乱し続ける脳内、酔わせ続ける足元。例えようのない恐怖感。狂ってしまうのではないかとすら思える混沌。立っていられないので逃げたくなる。布団だけが私の安堵できる場所。しかし逃げていては開眼を始めた目は閉じてしまう予感がする。布団の下の地盤は揺れ続け、心の酔いは落ち着かないだろう。変形し続ける地盤の上で、私はいつまで立ち続けていられるのか? 耐えている間に新たな地盤は築けるのか? 限界迄追い詰められた精神が開放されるとき、私は普通という幻想の中に招かれるのだと信じて疑わなかった。私の思っていた普通という幻想、世の中を回している普通という幻想。そこに乖離があっただなんて思いもしなかった。ちゃんと移行できるかどうか、自信がない。ひとりでは無理。支えて。うちの、主治医、友人知人。皆、助けてくれるだろうか。本当に正しく導いてくれるだろうか。呪縛から解放された私の精神に残された呪詛。解きたい。解けなければ解寛しない。解寛したとき、私の精神は、地盤はどうなっているのか全く以って予知不能。だから恐怖。射してきた光の先にあるのはお花畑か、それとも世の中を回している普通という幻想か。光は私が辿り着く迄、射し続けてくれるのだろうか……。

コメント