うちのの実家も今でこそ落ち着いているものの、昔はいろいろあったようである。先日、初めてそのいろいろの一端を知らされた。私は以前、うちのの親を引き合いにうちのを責めたことがある。猛省。今更な話だが、早く言ってくれればそんな責め方はしなかったであろう。うちのも私とは形こそ違えど、環境遺伝の被害者であるらしい。そして私と同様に環境遺伝からの開放を望んでいる。家庭という物は代々作られてゆく物である。ひとり立ちをしても、頼る先は大概、親という育った家庭の大元に行き着くだろう。これは環境遺伝の呪縛を引き摺る一因になっている気がする。その一因を排除するにはどうすればいいか。私が思うのは、絶縁乃至は新しく自分自身の家庭を築くことだ。前者は今現在の私の問題となってはいるが極論なので、後者について考えていきたい。

 新たな家庭を築き、その家庭の祖となることで育った家庭がなくなる訳ではない。しかし人生に於ける重心は変わる筈である。重心の変化と環境遺伝という物への気付きによって、呪縛から解かれる可能性は非常に高いのではないだろうか。うちのは私の諸事情を通して、以前は曖昧だった自身の環境遺伝に対し、明確な自覚が芽生えた。しかし環境遺伝は誰でもしていると言う。正しい。けれど、その環境遺伝が良いものならば代々継いでいくことが理想であろうが、悪しきものならば気付いた者が断ち切るべきだと私は考える。私は気付いた。うちのも気付いた。ふたりで断ち切りたいと思う私の気持ちは不自然なものではないと信じている。しかもお互いに悪しき環境遺伝に汚染された者同士である。お互いに気付きがなければ最悪な家庭が築かれるであろうが、気付いた者同士であればその汚染から脱することはできると思う。本当の祖になればいいのだ。これが私が今考えられる、最も良い解決法である。うちのが出した別れるという結論は逃げとしか思えない。逃げも確かにひとつの手ではあるだろう。けれど逃げ続けていては何も生まれないではないか。お互いの環境遺伝からの逃亡は必要。けれど全てからの逃亡は、今後も同様の事態を繰り返すことに繋がるのではないか。それは無意味だ。

 状況はやや違うが、私の親とうちのの母親の一時期の境遇がとても似ていたことを知った。私の親は子供の為に離別を選び、うちのの母親は子供の為に継続を選んだ。対極の選択をしたのだ。これは子供である私とうちのの、親や家庭への考え方の相違に大きく影響している。私は、親はいればいいというものではないという考え方であり、うちのは、母親を誰よりも大切に想っている。私はうちのの考えを尊重する。うちのがそう考えているならば、私も同様にうちのの母親を大切にしたいと思う。うちのは私の考えを理解はしてくれていても納得はできないようだ。互いの家庭が違ったのだからやむを得ないと思っている。ただ、私がこういう考えの持ち主だということだけ理解してくれればそれでいい。できれば、私が決意した養子縁組解除と絶縁が私自身の唯一の防衛であることも理解及び納得して欲しいが……。うちのの母親はうちのにとってはいた方がいい親であるのだろうが、私の親は私にとっていない方がいい親なのである。各々の母親は子供の為にと苦汁を舐めてきた。苦汁を舐めてくれる親全てがいい親ではないのだ。

 うちのが育つ上でしてきた苦労と、私が育つ上でしてきた苦労を秤にかけることはできないし、かけたところで意味はないがお互いにつらい思いをして育ったことだけは確かである。うちのが父親に与えられたつらさのツケと、私が実の両親から与えられたつらさのツケは別の形で出ている。うちののツケは過去の過ちとして、私のツケは諸事情として。何度となく書いていることだが、精神的に弱い者同士なのだ。うちのはマイナスとマイナスを足すと更にマイナスになると考えているようだ。私は違う。マイナスとマイナスは掛ければプラスに転じる。人と人との関係は足し算・引き算ではなく、掛け算・割り算だと考えているのだ。これは、マイナスな人間はどんなプラスな人間と一緒になってもマイナスになるという、ネガティブな考え方かもしれない。それは間違っている、と異議を唱える人もいるかもしれない。けれど私の経験則ではこれが正解である。

 昨夜、うちのの母親とも電話で少しだけ話をした。うちのの実家は、今うちのと私が住んでいる場所から遠く離れた場所にある。うちのの母親はうちののことをとても心配していた。私がうちのと一緒にいてくれるのは安心であるけれど、娘も持つ親として私の親の気持ちも解ると言っていた。先の意見は本音だろうが、後の意見は違うだろう。うちのの母親が嘘をついたという意味ではない。うちのの母親は私の親と違って破綻した人格の持ち主ではないので、うちのの母親が思う私の親の考えは一般的想像の範疇に収まっており、現実の壊れた考えに迄は至っていないだろうという意味だ。真っ当な人ならば、真っ当でない人の考えに達せないのは当然なので、これは仕方がないことである。私の親も、うちのの親なら気持ちを解ってくれるだろうと言っていた。きっと実際に私の親が思っていること伝えたら、うちのの母親は混乱するだろう。破綻しており、自己犠牲の皮を被った自己中心的な考えであり、他者の罪悪感や見捨てられ不安を煽るような意見に、他者の意見の脳内変換が加わる。私の親は土曜の話し合いにうちのの親をも呼びたがっていたが、うちのがそれに反対した。私はどちらでも良かった。うちのの母親を巻き込みたくないのが半分、私の親の不可解さを知ってもらいたいのが半分だったので。

 私の母方の祖母は、うちのの母親と同じ選択をした人間であり、私の親は祖母をとても大切に想っている。そこに私は環境遺伝の形の多様さを見る。親を想う子供の気持ちは基本的に美しい。しかし子を想う親の気持ちはときに不気味さを感じさせることがある。うちのの母親はうちのを真っ直ぐに育てたことが容易に想像できる。生じてしまった歪みは別の部分からの影響だろう。私の親は私を真っ直ぐに育てたと自己陶酔しているが、現実には意識的な部分と無意識の部分を含め翻弄しつつ育てた。私の歪みは実の両親それぞれから生じさせられた物だろう。うちのと私の生まれついての気質が歪みに抵抗し切れなかったことは否定しない。私の親は泣きながら昨日私にこう言っていた「死ぬ程嫌われようと、絶縁しようと、養子縁組を解消しようと、私たちはただ黒猫の幸せを願っている」。言っていることと、やっていることと、しようとしていることが出鱈目である。この手の作戦じみた自己陶酔には飽き飽きだ。反吐が出る。親らが私の幸せを願えば願う程に、私の思う自身の幸せから遠のいていっている。遠のかせている自覚がないのがまた性質が悪い。うちのに私の親は「あの子を普通の人と結婚させたい」と言ったそうだ。親よりはうちのの方が十分に、普通、である。過去の過ちでレッテルを貼ってうちのを、普通ではない、と言ってのける親の方が私からすれば異常である。うちののレッテルは後半年と少しで法的には剥がされる。一度貼られたレッテルは一生ついて回るという他者も多い。他者は他者。私は辞書通り、法通りに生きたいと願っている。そこにしか私の幸せは見出せない。

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