呪縛からの開放と寿命
2003年11月13日 家族・メンヘル・健康など 現在、14日。
大辞林によると、けじめを付ける、とは以下のような意味らしい。
(1)区別をはっきりさせる。
(2)過失や非難に対して、明白なかたちで責任をとる。
このような言葉を引いたのは、昨夜、親からもうちのからも、けじめ、と言う言葉が出てきたからだ。親は父親と離婚すると言う。うちのが結論を出した。別れると言う。そして両者とも、それがけじめだ、と。私は辞書通りの意味でなく言葉を使われると混乱する。なので調べたのだが、両者の言っていることと、けじめ、という言葉が私の中ではどうしても結びつかない。因って理解も納得も不能。この件に直接係わっている私以外の者らの意見を全て通すと、全ての者に幸せはなく、全員が不幸な結末となるのではないか。いいのか、それで? いいらしい。私は良くない。全く以って良くない。
まずは親の離婚から検証したい。私がうちのと一緒にいることで、父親の世間体などに傷が付く恐れがある。それを回避するために養子縁組解消。了解。しかし離婚の必然性は感じず、ふたりが出した結論に激しく異議がある。なので父親に訊いた。話にならなかった。なんなんだよ、だの、そういうんじゃねーんだよ、だの答えになっていない。親に訊いた。解り易くチャート式で以下に記す。
親の再婚、因みに職場結婚、は私の学生時代だった為、父親の保険に扶養家族として入っていたことがある
↓
養子縁組解消
↓
養子とも上手くいっていたことを知っていた職場の者が不審に思い、妙な噂を立てられる可能性がある
↓
母親の頑固な性格も職場結婚だった故に父親の周囲の人はよく知っている
↓
離婚という形を取る方が妙な噂が立つ可能性が低い
親はこれが最後にできる父親への善処だと言う。……意味不明。離婚を切り出したのは親であり、渋る父親を無理矢理頷かせたそうだ。そんな過程は関係ない。私は父親を見損なった。どのように説き伏せられたにせよ、最終的に頷いたということは、親への気持ちよりも世間体を採ったとしか私には思えない。親も親だ。養子縁組を解消さえすれば、離婚の必要はないだろう。養子と養父がうまくいかないなんてよくある話ではないか。妙な噂が立てられたとしても、それは所詮火のないところの煙である。すぐに鎮火するであろう。親に生活力はない。今後どうするつもりなのか。衝動的に離婚しても生活というものは付いてくる。そこのところをどう考えているのか解らない。私が実家に戻れば離婚が回避できるのかと訊いた。すると、判らないけれど戻るなら戻るで心を入れ替えて戻ってきてもらわないと嬉しくないし却って迷惑だ、と言われた。このことにより、親の離婚話は半分本気、残る半分はうちのと私の罪悪感への煽りと、私が実家に戻る際に言質を取る為のものと私は判断した。大体、心を入れ替えるって……? 今迄間違った心持だったような言われようではないか。他者からどう思われているかは判らないが、私自身は自分に正直な心持で生きてきたつもりなので、入れ替えるべき心の予備など持ち合わせてはいない。
次にうちのの出した結論への検証。これは根本だけを考えれば、答えは簡単だと思われる。私がいると私の親がごちゃごちゃと訳の解らないことを言ってくる。甚だ面倒であり迷惑である。ならば諸悪の根源となってしまっている私を排除すれば、うちのにとっての面倒や迷惑はなくなる、という考えに基づくものではないだろうか。疲れた、と言っていた。この言葉が上記の全てを物語る言葉だと思われる。また他の要因として、うちのは極端に他者に迷惑をかけることを嫌う傾向がある。因って、私と別れることによりうちの離散を防げるならば、親類縁者の将来の道の邪魔にならずに済むならば、などの思惑も含まれているだろう。理解はできる。けれど、私はどうなる? 親の離婚にしてもうちのの結論にしても、どうも肝心の私の身の置き場や気持ちが蔑ろにされている気がしてならない。私がいなければ、全て丸く収まるのか? という気がしている。
昨夜は親から私の元へも、仕事中であったうちのの元へも電話があった。うちのの帰宅後にお互いの電話での会話を照らし合わせてみたら噛み合わない部分が多々あった。うちのも私も親にはほとほと呆れている。ふたりとも係わりたくないと思っている。うちのは電話でかなり傷付けられたようだ。私も同様である。しかし親は自分ひとりが被害者気取りだ。自慢げに、あんたは言い訳ばかりの人生だとこの間言ってやった、と語る親にうちのは、そうやって貴女が黒猫を追い詰めているんじゃないですか? と言ったそうだ。そして、実家に帰るくらいなら死んだ方がマシだと黒猫は言っていた、とも伝えたらしい。私がうちのにそう言ったのは確かである。親は、死んだ方がマシなくらい嫌な親だったのか? と私と話す電話口で泣いていた。泣きたいのはこっちだ。嫌ではない。苦手なのだ。そして親と生活を共にするということは、私の精神的自立が、親が死ぬ迄阻まれ続けることに耐えられないのだ。ここに書いたまま親に伝えたが、やはり理解はできなかったらしい。私と親との関係は何だったの? とも訊かれたので、支配と依存、と率直に答えた。親から私への支配と依存、私が半ば依存を強制させられて育ったことを簡潔に説明した。これも理解できなかったようだ。仕方がないだろう。親も無意識にしてきたことなのだから。形而下にあるものをまず表面化させることが必要だ、と私は主治医に言われている。親にも同様のことが言えるだろうが、柔軟性が皆無とも言える親は全てを、親心として当然のこと、と括ってしまっている。その縛りを自らの気付きにより解かなければ、永遠に理解できる日はこないだろう。もう私は理解を欲してはいない。環境遺伝の呪縛から解き放たれたいだけだ。
うちのが親に対して言ったことの諸々を、親は本意とはかけ離れた美化をして捉えていた。土曜に4者で会うことになっている。うちのはそこで、来年半ば迄は仕送りをして私にひとり暮らしをさせるのでそこから先は親が面倒をみてやってくれ、と言うつもりらしい。別れさせたがっている親と、帰るくらいなら死にたいと言う私との間に立っての折衷案のつもりなのだろう。しかしながら不況とローンの狭間で、実家にはその先の仕送りを工面する経済力はない。私の寿命は残り7ヶ月らしい。親もうちのには、それが私の寿命だと言ったらしい。私は安楽死に賛成する者である。生き長らえさせられることを、良きこととは決して思わない。その場凌ぎの寿命など要らない。ただうちの小動物たちの今後が心配ではある。うちのに面倒をみて欲しいが、多忙なうちのにそれは困難である。うちのが出した結論は、私と小動物2匹を路頭に迷わせる結論である。小動物の1匹はとても利口で勘がいい。先日からうちのと私に異様な甘え方をしている。鳴き声も違う。何かを察知しているのだろう。今夜が山場だ。うちのの出した結論を覆させられなければ、明後日が私という無縁仏の命日になる可能性が高い。私はうちのと共に生きて行きたいと思っている。うちのは親に言われて傷付けられた言葉を気にしている。私と親は別人格の他者である。きちんと理解して欲しい。今、うちのが心身共に疲れ果てているのは判る。その疲れの原因のひとつを排除したいのも判る。それでも、判る、と、解る、は別物だ。
大辞林によると、けじめを付ける、とは以下のような意味らしい。
(1)区別をはっきりさせる。
(2)過失や非難に対して、明白なかたちで責任をとる。
このような言葉を引いたのは、昨夜、親からもうちのからも、けじめ、と言う言葉が出てきたからだ。親は父親と離婚すると言う。うちのが結論を出した。別れると言う。そして両者とも、それがけじめだ、と。私は辞書通りの意味でなく言葉を使われると混乱する。なので調べたのだが、両者の言っていることと、けじめ、という言葉が私の中ではどうしても結びつかない。因って理解も納得も不能。この件に直接係わっている私以外の者らの意見を全て通すと、全ての者に幸せはなく、全員が不幸な結末となるのではないか。いいのか、それで? いいらしい。私は良くない。全く以って良くない。
まずは親の離婚から検証したい。私がうちのと一緒にいることで、父親の世間体などに傷が付く恐れがある。それを回避するために養子縁組解消。了解。しかし離婚の必然性は感じず、ふたりが出した結論に激しく異議がある。なので父親に訊いた。話にならなかった。なんなんだよ、だの、そういうんじゃねーんだよ、だの答えになっていない。親に訊いた。解り易くチャート式で以下に記す。
親の再婚、因みに職場結婚、は私の学生時代だった為、父親の保険に扶養家族として入っていたことがある
↓
養子縁組解消
↓
養子とも上手くいっていたことを知っていた職場の者が不審に思い、妙な噂を立てられる可能性がある
↓
母親の頑固な性格も職場結婚だった故に父親の周囲の人はよく知っている
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離婚という形を取る方が妙な噂が立つ可能性が低い
親はこれが最後にできる父親への善処だと言う。……意味不明。離婚を切り出したのは親であり、渋る父親を無理矢理頷かせたそうだ。そんな過程は関係ない。私は父親を見損なった。どのように説き伏せられたにせよ、最終的に頷いたということは、親への気持ちよりも世間体を採ったとしか私には思えない。親も親だ。養子縁組を解消さえすれば、離婚の必要はないだろう。養子と養父がうまくいかないなんてよくある話ではないか。妙な噂が立てられたとしても、それは所詮火のないところの煙である。すぐに鎮火するであろう。親に生活力はない。今後どうするつもりなのか。衝動的に離婚しても生活というものは付いてくる。そこのところをどう考えているのか解らない。私が実家に戻れば離婚が回避できるのかと訊いた。すると、判らないけれど戻るなら戻るで心を入れ替えて戻ってきてもらわないと嬉しくないし却って迷惑だ、と言われた。このことにより、親の離婚話は半分本気、残る半分はうちのと私の罪悪感への煽りと、私が実家に戻る際に言質を取る為のものと私は判断した。大体、心を入れ替えるって……? 今迄間違った心持だったような言われようではないか。他者からどう思われているかは判らないが、私自身は自分に正直な心持で生きてきたつもりなので、入れ替えるべき心の予備など持ち合わせてはいない。
次にうちのの出した結論への検証。これは根本だけを考えれば、答えは簡単だと思われる。私がいると私の親がごちゃごちゃと訳の解らないことを言ってくる。甚だ面倒であり迷惑である。ならば諸悪の根源となってしまっている私を排除すれば、うちのにとっての面倒や迷惑はなくなる、という考えに基づくものではないだろうか。疲れた、と言っていた。この言葉が上記の全てを物語る言葉だと思われる。また他の要因として、うちのは極端に他者に迷惑をかけることを嫌う傾向がある。因って、私と別れることによりうちの離散を防げるならば、親類縁者の将来の道の邪魔にならずに済むならば、などの思惑も含まれているだろう。理解はできる。けれど、私はどうなる? 親の離婚にしてもうちのの結論にしても、どうも肝心の私の身の置き場や気持ちが蔑ろにされている気がしてならない。私がいなければ、全て丸く収まるのか? という気がしている。
昨夜は親から私の元へも、仕事中であったうちのの元へも電話があった。うちのの帰宅後にお互いの電話での会話を照らし合わせてみたら噛み合わない部分が多々あった。うちのも私も親にはほとほと呆れている。ふたりとも係わりたくないと思っている。うちのは電話でかなり傷付けられたようだ。私も同様である。しかし親は自分ひとりが被害者気取りだ。自慢げに、あんたは言い訳ばかりの人生だとこの間言ってやった、と語る親にうちのは、そうやって貴女が黒猫を追い詰めているんじゃないですか? と言ったそうだ。そして、実家に帰るくらいなら死んだ方がマシだと黒猫は言っていた、とも伝えたらしい。私がうちのにそう言ったのは確かである。親は、死んだ方がマシなくらい嫌な親だったのか? と私と話す電話口で泣いていた。泣きたいのはこっちだ。嫌ではない。苦手なのだ。そして親と生活を共にするということは、私の精神的自立が、親が死ぬ迄阻まれ続けることに耐えられないのだ。ここに書いたまま親に伝えたが、やはり理解はできなかったらしい。私と親との関係は何だったの? とも訊かれたので、支配と依存、と率直に答えた。親から私への支配と依存、私が半ば依存を強制させられて育ったことを簡潔に説明した。これも理解できなかったようだ。仕方がないだろう。親も無意識にしてきたことなのだから。形而下にあるものをまず表面化させることが必要だ、と私は主治医に言われている。親にも同様のことが言えるだろうが、柔軟性が皆無とも言える親は全てを、親心として当然のこと、と括ってしまっている。その縛りを自らの気付きにより解かなければ、永遠に理解できる日はこないだろう。もう私は理解を欲してはいない。環境遺伝の呪縛から解き放たれたいだけだ。
うちのが親に対して言ったことの諸々を、親は本意とはかけ離れた美化をして捉えていた。土曜に4者で会うことになっている。うちのはそこで、来年半ば迄は仕送りをして私にひとり暮らしをさせるのでそこから先は親が面倒をみてやってくれ、と言うつもりらしい。別れさせたがっている親と、帰るくらいなら死にたいと言う私との間に立っての折衷案のつもりなのだろう。しかしながら不況とローンの狭間で、実家にはその先の仕送りを工面する経済力はない。私の寿命は残り7ヶ月らしい。親もうちのには、それが私の寿命だと言ったらしい。私は安楽死に賛成する者である。生き長らえさせられることを、良きこととは決して思わない。その場凌ぎの寿命など要らない。ただうちの小動物たちの今後が心配ではある。うちのに面倒をみて欲しいが、多忙なうちのにそれは困難である。うちのが出した結論は、私と小動物2匹を路頭に迷わせる結論である。小動物の1匹はとても利口で勘がいい。先日からうちのと私に異様な甘え方をしている。鳴き声も違う。何かを察知しているのだろう。今夜が山場だ。うちのの出した結論を覆させられなければ、明後日が私という無縁仏の命日になる可能性が高い。私はうちのと共に生きて行きたいと思っている。うちのは親に言われて傷付けられた言葉を気にしている。私と親は別人格の他者である。きちんと理解して欲しい。今、うちのが心身共に疲れ果てているのは判る。その疲れの原因のひとつを排除したいのも判る。それでも、判る、と、解る、は別物だ。
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