説破
2003年11月12日 家族・メンヘル・健康など 昨夜遅く、親から電話があった。父親に今回の一連の話をして絶縁に同意を得たと言っていた。職業柄、父親は今の時期から年末迄とても忙しいので年内は内緒にしておこうと、親と私の間で口約束がされていたが、親はそれを破ったようだ。まあ遅かれ早かれの話であるし、親の腰巾着である父親が親の提案に頷かない訳はないので構わない。年末年始に私の姓は変わるだろう。私が調べたところ、養子縁組は解消できても、血縁関係にある親子の縁は法的には切れないようなので、このままだと私の次の姓は、親の旧姓になるようだ。私も嫌だし、親も嫌だろう。そして私がこれを調べたことにより親が言っていた、弁護士にも相談済みの法的手段を伴う絶縁、は恐らくハッタリであることが判明した。wwwとポケット六法に感謝。しかし私が見落としている法があるのかもしれないし、年内に調べ直し及び以前お世話になった弁護士に念の為、相談に行くつもりではある。私の理想は、親との絶縁と同時にうちのと入籍してしまうことだ。理由は簡単。合理的で様々な手間が省けるからである。しかしながら入籍はひとりではできない。うちのの同意が必要だ。話し合いをしなければ、と思っていたが、現在は話し合いではなく説破できるか否かの様相を呈している。
私の帰省中、うちのもいろいろ考えてくれていたようである。仕事で心身共に疲労しているのに……多謝。そしてうちのが出してきた提案は、別れた方がいいのではないか、だった。激しく同意できない。よって理由を問い質す。うちのは私が親に絶縁されることを良く思っておらず、またその絶縁の原因が自分であることに重責を感じており堪えられる自信がない、と。親と私、双方共に絶縁を望んでいるのだから気にする必要は一切ないのだが、そういうものではないと言う。家庭環境の違いがここに出ている。うちのは、血は水より濃い、と思っている人間だ。私はそれどころか、いない方がいい親もいる、と思っている人間だ。この私の思いをうちのは理解はしてくれているが、納得は伴っていない。うちのの家庭も過去にいろいろと問題があったようではあるが、私の境遇よりは相当に恵まれて育ったと思える。どうにか私を取り巻く状況を、理解だけでなく納得もさせねばならない。困難だが、第1の壁である。これを乗り越えられねば話は先へと進まない。進めたいので説破しなければならない。早急に理論武装を更に固める必要がある。
別れた方がいい、と、別れたい、は大きく違う。うちのが口にするのは前者である。その言葉には、自分が身を引くことで親と私の関係が修復するなら……といったものが感じ取れた。ここをハッキリさせなければならない。私を取り巻く周辺事情を抜きに、私の人格・性格・諸事情をひっくるめて考えて別れたいと思っているのか、YESかNOで答えるように訊いた。YESでありNOであるという、非常にずるい答えが返ってきた。というか、それ答えになっていないし。詳細を訊く。人格・性格はいい。注釈。私の人格や性格が良いという話ではなく、今後ふたりでやっていく上でそこは問題ではないという意味である。そしてネックは私の抱える諸事情だ、と。概して精神疾患患者は他者に理解を得難く、苦労をしている。患者の多くは、一見、普通の健常者に見えてしまうからだ。うちのは私の諸事情を理解してくれている。基本的には納得もしてくれている。しかしときには納得しきれない面もあると言う。理解も納得もできる。が。ひっくるめて考えて答えろと言ったではないか! うちのが私を受容してくれなければ、現在生活能力のない私は、実家に強制送還される羽目になる。親の中の人が替わっていなかった以上実家への収監は、親による私の精神的自立の阻止の継続を意味する。不本意である。現状よりも諸事情が悪化するなど考えたくもないが、安易に想像できてしまうのが恐怖だ。
うちののDV的言動は、私の諸事情への、ときとして納得できていない場合に引き出されることが多い。親との絶縁が解寛への近道と思う私にとって、これは今後、絶縁によってクリアされる可能性の高い問題に思える。暴力的発言が肉体的暴力に発展しない例は少ない。金銭への考え方が変化する可能性も少ない。うちのが犯した過ちは再犯されないことの方が少ない。これら少ないの連発は、各々の、またトータルでのリスクの高さを意味する。多くの人間はリスクの高い賭けは避けたいと考えるだろう。けれど忘れてはならないことがある。少ない=ゼロではなく、少数ながらもそこに当て嵌まらない人間は、確実に存在しているのだ。私は賭けごとが好きだ。賭けはリスクが高ければ高い程賭け甲斐がある。単勝万馬券などに賭けるのは非常にわくわくする。人は人を変えることはできない。自分自身が変わるしかない。主治医も言っていたし、私も経験則で理解・納得ができる。うちのが変わるきっかけに私はなりたい。気付きを作りたい。私はこれ迄に苦労もかけられたが、うちのに変わるきっかけや気付きもたくさんもらった。親は私がうちのから得たものはPCの知識くらいだろうと言うが、とんでもない誤解である。うちのには短所だけでなく長所も多々あり、その長所によって私の諸事情の一症状が消えたのを、親は忘れているようだ。それだけでも大きな収穫であり、他にもいろいろいい意味でも悪い意味でも類稀な経験をさせてもらったのを、私は貴重な経験と考えている。親にとっては余計な経験としか思えないようだが、類稀な経験はしようと思ってできるものではなく、それだけ私は珍しい人生経験ができたということなのだが。単純に私は弱い者同士、支え合って生きていきたいだけ。そしてふたりで強くなりたい。生活を共にして4年。お互いにいろいろあったし、お互いのそれ迄の過去にもいろいろあった。全て承知だ。うちのが犯した過ちが発覚した際に交わした、うちのと私の往復書簡がある。その頃は私の諸事情が表面化していなかったので、そこに書いた・書かれた全てをこなすことはできない。できる範囲でやるしかない。それは解ってもらう必要がある。そしてもっと解ってもらわなければならないのは、その書簡に書いた、私の根底の気持ちは変わっていないということだ。うちのは変わっているのだろうか? 変わっていないことを願う。次の説破は明日になるだろう。そのときに書簡の話を持ち出してみよう。
座右の銘である、人生は死ぬ迄の暇潰し。次に好きな言葉が、誰の言葉だったか忘れてしまったが、人生は最大の博打である。暇潰しに博打は持ってこいだ。競馬・パチンコ・スロット・非合法カジノ・麻雀・外馬。競輪・競艇・賭場……特に手本引きはやってみたかったが、もういい。麻雀は続けるだろうが、今後の私のメインの博打は人生そのものだ。うちのへの説破は第1レースであり、釘読み台選びであり、東場第一局である。ここで主導権を取れなければ、暇潰しも終了。博打は命懸けである方が楽しいというのが、博打打ちの性なのか。
私の帰省中、うちのもいろいろ考えてくれていたようである。仕事で心身共に疲労しているのに……多謝。そしてうちのが出してきた提案は、別れた方がいいのではないか、だった。激しく同意できない。よって理由を問い質す。うちのは私が親に絶縁されることを良く思っておらず、またその絶縁の原因が自分であることに重責を感じており堪えられる自信がない、と。親と私、双方共に絶縁を望んでいるのだから気にする必要は一切ないのだが、そういうものではないと言う。家庭環境の違いがここに出ている。うちのは、血は水より濃い、と思っている人間だ。私はそれどころか、いない方がいい親もいる、と思っている人間だ。この私の思いをうちのは理解はしてくれているが、納得は伴っていない。うちのの家庭も過去にいろいろと問題があったようではあるが、私の境遇よりは相当に恵まれて育ったと思える。どうにか私を取り巻く状況を、理解だけでなく納得もさせねばならない。困難だが、第1の壁である。これを乗り越えられねば話は先へと進まない。進めたいので説破しなければならない。早急に理論武装を更に固める必要がある。
別れた方がいい、と、別れたい、は大きく違う。うちのが口にするのは前者である。その言葉には、自分が身を引くことで親と私の関係が修復するなら……といったものが感じ取れた。ここをハッキリさせなければならない。私を取り巻く周辺事情を抜きに、私の人格・性格・諸事情をひっくるめて考えて別れたいと思っているのか、YESかNOで答えるように訊いた。YESでありNOであるという、非常にずるい答えが返ってきた。というか、それ答えになっていないし。詳細を訊く。人格・性格はいい。注釈。私の人格や性格が良いという話ではなく、今後ふたりでやっていく上でそこは問題ではないという意味である。そしてネックは私の抱える諸事情だ、と。概して精神疾患患者は他者に理解を得難く、苦労をしている。患者の多くは、一見、普通の健常者に見えてしまうからだ。うちのは私の諸事情を理解してくれている。基本的には納得もしてくれている。しかしときには納得しきれない面もあると言う。理解も納得もできる。が。ひっくるめて考えて答えろと言ったではないか! うちのが私を受容してくれなければ、現在生活能力のない私は、実家に強制送還される羽目になる。親の中の人が替わっていなかった以上実家への収監は、親による私の精神的自立の阻止の継続を意味する。不本意である。現状よりも諸事情が悪化するなど考えたくもないが、安易に想像できてしまうのが恐怖だ。
うちののDV的言動は、私の諸事情への、ときとして納得できていない場合に引き出されることが多い。親との絶縁が解寛への近道と思う私にとって、これは今後、絶縁によってクリアされる可能性の高い問題に思える。暴力的発言が肉体的暴力に発展しない例は少ない。金銭への考え方が変化する可能性も少ない。うちのが犯した過ちは再犯されないことの方が少ない。これら少ないの連発は、各々の、またトータルでのリスクの高さを意味する。多くの人間はリスクの高い賭けは避けたいと考えるだろう。けれど忘れてはならないことがある。少ない=ゼロではなく、少数ながらもそこに当て嵌まらない人間は、確実に存在しているのだ。私は賭けごとが好きだ。賭けはリスクが高ければ高い程賭け甲斐がある。単勝万馬券などに賭けるのは非常にわくわくする。人は人を変えることはできない。自分自身が変わるしかない。主治医も言っていたし、私も経験則で理解・納得ができる。うちのが変わるきっかけに私はなりたい。気付きを作りたい。私はこれ迄に苦労もかけられたが、うちのに変わるきっかけや気付きもたくさんもらった。親は私がうちのから得たものはPCの知識くらいだろうと言うが、とんでもない誤解である。うちのには短所だけでなく長所も多々あり、その長所によって私の諸事情の一症状が消えたのを、親は忘れているようだ。それだけでも大きな収穫であり、他にもいろいろいい意味でも悪い意味でも類稀な経験をさせてもらったのを、私は貴重な経験と考えている。親にとっては余計な経験としか思えないようだが、類稀な経験はしようと思ってできるものではなく、それだけ私は珍しい人生経験ができたということなのだが。単純に私は弱い者同士、支え合って生きていきたいだけ。そしてふたりで強くなりたい。生活を共にして4年。お互いにいろいろあったし、お互いのそれ迄の過去にもいろいろあった。全て承知だ。うちのが犯した過ちが発覚した際に交わした、うちのと私の往復書簡がある。その頃は私の諸事情が表面化していなかったので、そこに書いた・書かれた全てをこなすことはできない。できる範囲でやるしかない。それは解ってもらう必要がある。そしてもっと解ってもらわなければならないのは、その書簡に書いた、私の根底の気持ちは変わっていないということだ。うちのは変わっているのだろうか? 変わっていないことを願う。次の説破は明日になるだろう。そのときに書簡の話を持ち出してみよう。
座右の銘である、人生は死ぬ迄の暇潰し。次に好きな言葉が、誰の言葉だったか忘れてしまったが、人生は最大の博打である。暇潰しに博打は持ってこいだ。競馬・パチンコ・スロット・非合法カジノ・麻雀・外馬。競輪・競艇・賭場……特に手本引きはやってみたかったが、もういい。麻雀は続けるだろうが、今後の私のメインの博打は人生そのものだ。うちのへの説破は第1レースであり、釘読み台選びであり、東場第一局である。ここで主導権を取れなければ、暇潰しも終了。博打は命懸けである方が楽しいというのが、博打打ちの性なのか。
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