早期解寛への道
2003年11月11日 家族・メンヘル・健康など 9及び10日付の続き。
私の親はマス・メディアの報道に疑問を感じない人間である。芸能関係はともかく、報道となると鵜呑みにしてしまっていると言っても過言ではあるまい。うちのが犯した過ちはよくメディアでも取り上げられる事柄のひとつだ。関連書籍も山と出版されている。メディアに於ける報道の方向性は政府・警察の検閲でもあるかのように一貫されている。関連書籍では様々な取り上げられ方をしている。書籍を読み漁れば多方向から解釈ができてくる。因って私は一概にうちのの犯した過ちを全否定はできなくなる。非はある。うちのの精神的弱さだ。しかしその非はあっても全否定はしない。できない。親はその手の書籍を一冊も読んだことがない。元来読書の苦手な人間だ。情報の殆どをテレビのワイドショーや報道番組から得ている。なので一方向からの視点でしか、この物事に関しては考えられない。勉強しろとは言わないが、一方向からしか物事を捉えられない危険性を全く感じていないところに不安が残る。今が戦時下なら大本営発表を鵜呑みして一喜一憂するんだろうなあ、と思うと不安というか、可笑しいというか、まあ複雑な心境になる。
日本には六法という明文化された法律がある。国会に於いて改正・廃止・新法成立などが行われて、そのときどきで変化する。その中で放置されたままの法もある。放置されているのにはいろいろな理由があるだろう。その法が現在は殆ど使われていない、その法がなければ国への不利益が生じる、その法があることでどこかの誰かが利益を得ているなど。他国との比較もときには必要である。某国では合法なことが某国では違法だったりもする。それはどのような背景に基づいて違っているのか。稀に医学的視点も必要となってくる。何故こちらの方が害が大きいのに合法とされ、こちらの方が害が少ないのに違法とされているのか。何故昔は合法だったのに、今は違法とされているのかなど。私は法に限らず様々な事柄や現象に疑問を持つ。悪いことだとは欠片も思っておらず、むしろ良いことだと思っている。何も疑問や疑念を抱かない人間は、知識も教養も増えない。しかし私のような人間をいぶかしむ者もいる。大本営発表を鵜呑みにするような人間だ。ニュースでこう言っているんだから正しいに決まっている、文化人がこう語っているんだから間違っていないに決まっている。そういうタイプの人間からしたら私のような存在そのものが不思議であり、またときとして非国民のように見えるらしい。ニュースの報道も一意見、文化人の意見も個人の一意見。それが電波に乗ったからといって普遍であると、何故無邪気に信じられるのか。私から見たらそちらの方が不思議でならない。普通とは幻想、と前に断言した。同様に、普遍なる物はこの世に存在しないとも断言する。
親からの法を伴う絶縁宣言は、私を切ることで周囲に迷惑をかけない為だと言う。それはいい。確かに私がうちのと一緒にいることで、うちのの過ちが発覚した場合に不都合を被る人間もいるのは事実であり、うちのの為に彼らが肩身狭い思いをする必要はない。それだけが真の理由ならば、切られることも仕方がないと素直に受け止められる。しかし今現在、私はそうではなさそうな気配を感じている。私の諸事情の大きな症状として見捨てられ不安がある。それをまた煽ろうとしているのではないか、そして自分の支配下に私を置くことで親が再び私の自立を妨げようとしているのではないか。私の諸事情の0か100か思考の極端な状況として、絶縁を持ち出してきているのではないか。私の諸事情は環境遺伝する物だ。これらの気配は恐らくただの気配ではなく、真実の一片だろう。もうその手には乗らない。主治医からの診断を得、自ら勉強もし、手口は見えている。今の私に親からの見捨てられ不安がないといったら嘘になる。けれど、ここでその不安に打ち勝たなければ、私はいつまで経っても自立もできなければ諸事情の解寛もないだろう。今回の親を取るかうちのを取るかという件に於いて、私が最重要視しているのはどちらへの愛が強いかなどではない。どちらと生活を共にする方が、私の解寛への近道となるかだ。所詮、死なないことで精一杯な人間だ。家族も恋人も関係ない。ただ、私自身に、生きていくことへの強さが欲しいだけである。
うちのと私は共依存の関係にある。うちのは診断を受けていないのでハッキリとは判らないが、私の諸事情と同じか若しくはそれと類似した別の諸事情を抱えている筈である。本人は否定するであろうが。うちのと以前、共依存について話し合ったことがある。そのときうちのはこう言った「恋人同士や家族で依存しあうのは普通じゃない?」。普通ではない。自立した者同士で助け合ったり支えあったりする恋人同士や家族が理想だ。今のうちのと私にそれはできない。でも、この先できるようになる可能性はある。うちのが弱さを克服し、私が解寛したときだ。私が実家を選んだ場合、自立して助け合い支え合うという家族像は親の幻想の元に模られ、そこに嵌りきれないであろう私は遅かれ早かれまた見捨てられ不安を煽られて、型に嵌ることを強要される=自立を妨げられるか、もう一度今回のような判子を伴う見捨てをされるかのどちらかに違いあるまい。
実の父親と親が離婚する際に親が私に言った言葉を鮮明に覚えている。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。正論であり、激しく同意する。ここ迄育ててくれたことへの感謝はこの先も忘れることはない。同時に意識的に、または無意識に親が私にしてきた仕打ちも忘れないだろう。私は小柄で貧乳ながらも大人の体格になり、選挙権を得て7年が経つ。肉体的・社会的には大人だ。精神を早く追いつかせたい。死なないことで精一杯の崖をどうにか登りきって、地に足を付かせたい。法的なものも伴う絶縁によって、私がこの先様々な不利益を被ることもあるだろう。それらは精神的に大人になる為の通過儀礼として受け止める覚悟をしている。先日括った腹は、親の意見翻しにより一旦解いたが改めて括り直した。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。あのときは父親のことだったが、今は違う。この言葉を言った母親自身のことである。彼女は一生気付かないだろう。50代も半ばを過ぎて、これに気付くことと気付かないこと、どちらが幸せかは解らない。けれど私は気付いてしまった。そして今、気付けた自分は幸せだと思っている。残る問題は、うちのが私を受け入れてくれる方向で腹を括ってくれるかだ。話し合わねば。
私の親はマス・メディアの報道に疑問を感じない人間である。芸能関係はともかく、報道となると鵜呑みにしてしまっていると言っても過言ではあるまい。うちのが犯した過ちはよくメディアでも取り上げられる事柄のひとつだ。関連書籍も山と出版されている。メディアに於ける報道の方向性は政府・警察の検閲でもあるかのように一貫されている。関連書籍では様々な取り上げられ方をしている。書籍を読み漁れば多方向から解釈ができてくる。因って私は一概にうちのの犯した過ちを全否定はできなくなる。非はある。うちのの精神的弱さだ。しかしその非はあっても全否定はしない。できない。親はその手の書籍を一冊も読んだことがない。元来読書の苦手な人間だ。情報の殆どをテレビのワイドショーや報道番組から得ている。なので一方向からの視点でしか、この物事に関しては考えられない。勉強しろとは言わないが、一方向からしか物事を捉えられない危険性を全く感じていないところに不安が残る。今が戦時下なら大本営発表を鵜呑みして一喜一憂するんだろうなあ、と思うと不安というか、可笑しいというか、まあ複雑な心境になる。
日本には六法という明文化された法律がある。国会に於いて改正・廃止・新法成立などが行われて、そのときどきで変化する。その中で放置されたままの法もある。放置されているのにはいろいろな理由があるだろう。その法が現在は殆ど使われていない、その法がなければ国への不利益が生じる、その法があることでどこかの誰かが利益を得ているなど。他国との比較もときには必要である。某国では合法なことが某国では違法だったりもする。それはどのような背景に基づいて違っているのか。稀に医学的視点も必要となってくる。何故こちらの方が害が大きいのに合法とされ、こちらの方が害が少ないのに違法とされているのか。何故昔は合法だったのに、今は違法とされているのかなど。私は法に限らず様々な事柄や現象に疑問を持つ。悪いことだとは欠片も思っておらず、むしろ良いことだと思っている。何も疑問や疑念を抱かない人間は、知識も教養も増えない。しかし私のような人間をいぶかしむ者もいる。大本営発表を鵜呑みにするような人間だ。ニュースでこう言っているんだから正しいに決まっている、文化人がこう語っているんだから間違っていないに決まっている。そういうタイプの人間からしたら私のような存在そのものが不思議であり、またときとして非国民のように見えるらしい。ニュースの報道も一意見、文化人の意見も個人の一意見。それが電波に乗ったからといって普遍であると、何故無邪気に信じられるのか。私から見たらそちらの方が不思議でならない。普通とは幻想、と前に断言した。同様に、普遍なる物はこの世に存在しないとも断言する。
親からの法を伴う絶縁宣言は、私を切ることで周囲に迷惑をかけない為だと言う。それはいい。確かに私がうちのと一緒にいることで、うちのの過ちが発覚した場合に不都合を被る人間もいるのは事実であり、うちのの為に彼らが肩身狭い思いをする必要はない。それだけが真の理由ならば、切られることも仕方がないと素直に受け止められる。しかし今現在、私はそうではなさそうな気配を感じている。私の諸事情の大きな症状として見捨てられ不安がある。それをまた煽ろうとしているのではないか、そして自分の支配下に私を置くことで親が再び私の自立を妨げようとしているのではないか。私の諸事情の0か100か思考の極端な状況として、絶縁を持ち出してきているのではないか。私の諸事情は環境遺伝する物だ。これらの気配は恐らくただの気配ではなく、真実の一片だろう。もうその手には乗らない。主治医からの診断を得、自ら勉強もし、手口は見えている。今の私に親からの見捨てられ不安がないといったら嘘になる。けれど、ここでその不安に打ち勝たなければ、私はいつまで経っても自立もできなければ諸事情の解寛もないだろう。今回の親を取るかうちのを取るかという件に於いて、私が最重要視しているのはどちらへの愛が強いかなどではない。どちらと生活を共にする方が、私の解寛への近道となるかだ。所詮、死なないことで精一杯な人間だ。家族も恋人も関係ない。ただ、私自身に、生きていくことへの強さが欲しいだけである。
うちのと私は共依存の関係にある。うちのは診断を受けていないのでハッキリとは判らないが、私の諸事情と同じか若しくはそれと類似した別の諸事情を抱えている筈である。本人は否定するであろうが。うちのと以前、共依存について話し合ったことがある。そのときうちのはこう言った「恋人同士や家族で依存しあうのは普通じゃない?」。普通ではない。自立した者同士で助け合ったり支えあったりする恋人同士や家族が理想だ。今のうちのと私にそれはできない。でも、この先できるようになる可能性はある。うちのが弱さを克服し、私が解寛したときだ。私が実家を選んだ場合、自立して助け合い支え合うという家族像は親の幻想の元に模られ、そこに嵌りきれないであろう私は遅かれ早かれまた見捨てられ不安を煽られて、型に嵌ることを強要される=自立を妨げられるか、もう一度今回のような判子を伴う見捨てをされるかのどちらかに違いあるまい。
実の父親と親が離婚する際に親が私に言った言葉を鮮明に覚えている。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。正論であり、激しく同意する。ここ迄育ててくれたことへの感謝はこの先も忘れることはない。同時に意識的に、または無意識に親が私にしてきた仕打ちも忘れないだろう。私は小柄で貧乳ながらも大人の体格になり、選挙権を得て7年が経つ。肉体的・社会的には大人だ。精神を早く追いつかせたい。死なないことで精一杯の崖をどうにか登りきって、地に足を付かせたい。法的なものも伴う絶縁によって、私がこの先様々な不利益を被ることもあるだろう。それらは精神的に大人になる為の通過儀礼として受け止める覚悟をしている。先日括った腹は、親の意見翻しにより一旦解いたが改めて括り直した。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。あのときは父親のことだったが、今は違う。この言葉を言った母親自身のことである。彼女は一生気付かないだろう。50代も半ばを過ぎて、これに気付くことと気付かないこと、どちらが幸せかは解らない。けれど私は気付いてしまった。そして今、気付けた自分は幸せだと思っている。残る問題は、うちのが私を受け入れてくれる方向で腹を括ってくれるかだ。話し合わねば。
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