現在11日。9日付の続きである。

 帰省中の発作時、親は近くにいたが「大丈夫?」の一言も私にかけてこなかった。2年半前のことを根に持っているらしい。その2年半前の出来事。私が心身を消耗させつつ、うちのが犯した過ちの処理に忙しくしていた頃の話である。親が駅で意識を失って救急車で運ばれた、と父親から電話があった。子供として当然心配をし運ばれた病院を聞き、すぐに行こうか? と訊いたところ、大丈夫だから、との返事だったので私は行かなかった。自分も消耗しているのに大丈夫と聞けば行く気はなくなる。薄情と思う人もいるだろうが、少なくとも私はそうだ。ましてや元々余りいい感情を持っていない親のことである。このときのことを、親が未だに根に持っていたとは思っていなかった。私にしてみれば、大丈夫だと父親が言っているのだから大丈夫なのだろう、と行かなかった迄だ。しかし親の抱いていた思いは違っていた。あのとき、私は娘に捨てられた、と思い、今もそう思っているらしい。なので今回の絶縁も一度捨てられた身なのだから再び娘に捨てられることは怖くないし、こちらから捨てるのも平気だ、とのこと。私が発作で苦しんでいるときに「大丈夫?」の一言もないので、私はまた親がトンデモなことを考えているのだと思っていた。前に書いた、親が言っていた頓珍漢なこと、のひとつに、私はあなたは病気ではないと思うの、というのがあった。因みにこれは主治医の元にもう通い出し、また自治体に主治医が出した診断書も認められた後の発言である。なので心配のひとつもしてこないのは、まだ私が仮病を使っているとでも考えているのかと思ったのだが、そうではなく上記のようなことらしい。如何様な事情があろうと、目の前で呼吸を荒げて床で丸まって苦しんでいる人間がいれば心配するのが、普通、だと思うのだが違うようだ。今日の病院帰り、間抜けな私は、駅に向かう途中で濡れた床で足を滑らせて転んだ。「あいたー!」と言う私の声に驚いた、前を歩いていたカップルだか夫婦だかが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。このカップルだか夫婦だかは見知らぬ他人様である。膝を打っただけなので「大丈夫です。驚かせて済みません」と詫びてその場をやり過ごしたが、実は私はそのとき泣きそうだった。膝の痛みからの泪ではない。彼らが振り向いて声をかけてくれたことに対してである。

 親はしょっちゅう、人として、という言葉を使う。人として〜〜してはいけない。人として〜〜すべきだ。私もときどき使う言葉ではある。この、人として、は個々の考える正義に基づいて出る発言だと私は思っている。なので私の口からはときどきしか出ない。親の口からはしょっちゅう出る。私は自分の言う、人として、を否定されても相手の考えを尊重するよう心がけている。親は否定されると相手の人間性そのものを否定して自己肯定する。個々の正義とは個々のプライドに繋がっていると思う。いつか、プライドをたくさん持っている奴は莫迦だ、と書いたことがあると思う。恥ずかしながら、私の親は私の思う莫迦の集大成というか、見本市というか……どうにも相性が悪い。他者の意見を尊重できない、自分の意見とは違う意見は全て屁理屈。よくわからん。親は狭く深くながらも長年の友人がいることは素晴らしいと言う。私も素晴らしいと思うし、私と長く付き合ってくれている友人らに感謝している。そして、親にそれだけ長年の友人がいないのは何故だろう? 全ては語るまい。

 私の嫌いな言葉のひとつに、生理的に、という便利な言葉がある。大概は何かを否定する際に用いられる言葉だ。そしてその否定をきちんと説明できないときに、生理的に、の出番はやってくることが多く感じる。私は嫌いなので、この言葉はまず使わない。もっとハッキリ言えば、莫迦の使う言葉として認定している。莫迦は自分の喜怒哀楽や愛憎を言語化するのが下手だ。これは口下手とかそういう問題ではなく、喜怒哀楽や愛憎をただ感情任せに垂れ流しているだけであり、自分自身で何故にそのような感情が発生しているのか理解できていないのだと、私は思う。親の言う、人として〜〜してはいけない、は得てして、生理的に受け付けない、に等しい。その背景や歴史や世界情勢は考えない。背景などを持ち出したのは、うちのの過去の過ちにこの言葉を使っていたからだ。うちのも私のもその過ちに対し、そこそこ造詣が深い。親はそんな諸々を知ろうとはせずに、ただ受け付けないと繰り返す。受け付けないのはいい。それを尤もらしく、人として〜〜、などというから腹が立つ。それはあくまで親にとっての正義の旗であり、うちのや私の旗とは違う。私にとって、旗が違うのはそれはそれでいい。けれど、自分では確固とした説明もできないのに、人として、を振りかざすことには多大なる疑問を感じてしまう。親に言わせれば、そこに疑問を感じること自体が、人としてダメらしい。ダメで結構。

 何事にも理由や理論を付けたがるのはいけないことなのだろうか? 理論武装、私は大好きである。ディベートの基本だ。本格的にディベートを学んだことはないけれど。お互いに理論武装して意見を戦わせることには、有意義である。相手が違う意見を違う理論で語ってくれることにより、こちらにもまた違う部分が見えてくることは少なくない。そして筋道の通った理論武装をできる人間は、莫迦ではない場合が多い。莫迦は理論武装をしているつもりでも、あちらこちらに破綻が見えるので解る。その手の莫迦より性質が悪いのが、自分にとって全ての、生理的にダメ、をさも世間一般の代表のように、人として〜〜と語る人間であり、私の親がそのひとりであることに情けなさを感じる。更に情けないのは、親の勢いに負けて莫迦さ加減を指摘できない自分である。勢いとは恐ろしい。私が理論の前振りを語る間もなく、ダメ! 絶対! の連発で攻撃してくる。泣く子と地頭と親には勝てない……。勝ちたいとは思わないが、あの性格のまま親が一生を過ごすことに私は不憫や哀れを感じてしまう。単純に、狭量な人間は損だと思うからだ。教養は大切である。学歴ではない。教養。書を捨てよ、町へ出よう、は嘘である。書を持って、町へ出るべきだ。私が寺山嫌いだから言っているのではなく、私の経験に基づいて否定したい書名なのだ。本の内容は昔読んだけれど忘れた。読み直すことはあるのかなあ。あれを読み直すなら、トマトケチャップ皇帝をもう一度観たいところだ。

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