自己犠牲か絶縁を伴う幸せ
2003年11月7日 家族・メンヘル・健康など 一昨日付の日記で山脈の狭間に置かれていると書いた。昨夜、うちのも同じ場所へと突き落とした。自分ひとりで選べる山々ではなく、同じ考えを持った上で、どの山を選ぶか決めなければならないからである。うちのは常に疲れている。それでも今回はきちんと聞いてくれた。どの山を選ぶかによって、今後の状況は大いに変わってくる。冷静に時間をかけてゆっくりと選ばなければならない。うちのにとっては、相手が私に限らず一生ついて回る選択且つ問題となる。以前したことの重大さが今回は今迄とは違う形で表面化し、それがまた身に沁みて解ったようで、きちんと考えてくれるらしい。昨夜の話では諦念と投げやり感が見え隠れしていたが、それでもきちんと前向きに考えなければならない状況にあることは把握できたようだ。私は既にひとつの山を選択して腹を括っている。うちのが同じ山を選ぶかどうかは判らない。どの山を選ぶもうちのの自由。しかし選ぶにあたって、ちゃんと腹を括ってくれなければならない。仮に私と同じ山を選んでくれるとしたら、その山には数々の崖があることも説明した。その崖を乗り越えるにあたって、カウンセリングを受けて欲しいことも説明した。今迄は無条件にカウンセリングを拒んでいたうちのだが、今度ばかりは前向きに考えてくれるようである。昨日も今日も寝起きの絡みやDV的発言は出てきていない。これに惑わされてはならないと、私は自分に言い聞かせている。ただ、このまま治ってくれることに希望は持ちたい。話し合いで判ったこと。私はうちのと自分とが共に幸せになれる山を選びたく思っている。対してうちのは、私が幸せになれる山を選ぼうとしていた。どちらがお互いにとって、また相手の、自分の幸せにより良い山かは時間が経たなければ判明はしない。うちのは、自業自得、という名の下に自らの幸せを捨てて私を幸せにしようとしているように思えた。それはうちのが自分の幸せを犠牲にしているように思えた。ダメである。うちのが私の幸せを最優先してくれるのは、嬉しく有難いことである。けれど、私はうちのの幸せを最優先したい。気持ちは同じなのである。ただ、どちらの幸せを最優先するかによって選ぶ山は変わってくる。慎重に選ばなければならない。焦らずにじっくりとふたりで考える必要がある。
昨夜の話し合いでひとつ解ったことがある。うちのと私とでは、家族、というものに対する考え方が大きく違っているようだった。私は、血は水よりも濃い、などという言葉を信じてはいない。それが本当ならこの世に遺産相続争いなどあり得ない。また私の今の父親は法的にはふたり目であり、実質的には3人目に等しい。家族など代替の利くものだと思っている。また私の病気の根源が幼少期からの親子関係にあるように、親が離婚を決意した時の気持ちと同様に、親はいればいいというものではないと思っている。うちのは違うらしい。末っ子の長男として甘やかされて育ち、今はひとり立ちをしてはいるものの、親兄弟はかけがえのないものだと考えているようだ。そのような考えの持ち主であるうちのは、やっと相互理解できてきた私と親との関係を壊したくないと思っているらしい。そう思ってくれるのは有難い。有難いのだが、その意見を採用すると私が登ろうと腹を括った山には登れなくなる。育った環境の違いを大きく感じさせられた。私とて親を粗末に考えている訳ではない。親は親で大事である。しかし親よりも大事だと思えるものがあるのだ。うちのは過去の過ち故に、私に限らずどんな相手であっても、皆に祝福されて結ばれるという望みは薄い。それが今、私たちが抱えている問題で解ったらしい。私は皆に祝福される必要などないと思っている。本人たちが幸せならばそれでいいではないか。うちのは皆に祝福されて結ばれることを望んでいる。そんな考えは捨ててしまえ。無駄だ。望むのは自由だが、余りにも期待の薄い台にしがみついて全財産を北に貢ぐようなものだ。どこかで割り切る、見切りをつける必要がある。私は今、うちのに皆からの祝福というものに見切りをつけてもらいたいと思っている。自己犠牲は宜しくない。
私は自分が登りたいと思っている山をうちのに示した。その山を登るにあたっての条件もつけた。うちのはそれらを全て理解及び納得はしてくれた。後は実践が伴うかどうかである。伴わなければ、私がその山を選ぶ価値はない。うちのにだけ条件を課した訳ではなく、自分にもクリアすべき諸々がある。ふたりでそれを乗り越えたい。自業自得に自己犠牲。そんなものでうちのが別の山を選び、私の幸せを最優先してくれてしまうと、今度は私に罪悪感が残る。うちのは私と同じ山を選ぶと罪悪感が伴い、その罪悪感に負けそうだと言っていた。過去の過ちからして、うちのは精神的に弱い人間である。私も精神科通いをしていることだけでも判るように、メンタル面が強い人間ではない。それでもうちのよりは多少なりとも強いつもりだ。ならば強い方に弱い方が甘えてしまえば良いではないか。どの山を選んでもどちらかに罪悪感は伴うのである。私に甘えて欲しい。そして私の甘えることで罪悪感に負けそうだと言うならば、その負けそうな気持ちを乗り越える強さを身につけて欲しい。弱い人間同士である。共に強くなりたい。
私の親の最初の結婚は破綻した。昨日初めて聞かされたことであるが、私の親も結婚にあたり周囲の反対を押し切って強引に入籍したらしい。私の親は同じ轍を私に踏んで欲しくないと願っている。子を思う親の気持ちは有難い。けれど、私の親の結婚が破綻したからといって、私の結婚が同様に周囲の反対を押し切ったものだからといって、破綻するとは限らないのだ。可能性はゼロではない。それは破綻する可能性・破綻しない可能性、両方に言える筈だ。リスクの高い方に賭けて欲しくないという親の気持ちはよく解る。けれど、忘れてはいまいか。私は実の父親の血を引いた娘であり、根っからの博打打ちなのだ。リスクの高い博打に程、遣り甲斐を感じるのが博打打ちの性である。私が、血は水よりも濃い、などと思っていないことはさっき書いた。それでも私の血は両親の血を引いた物であり、母親の血よりも父親の血の方が濃いと感じることはある。精神的弱さ、博打好き。母親は強い人間である。その強さを親の意に沿わない形で引き出そうと、今の私はもがいている。前に、親が嫌いではないが苦手ではある、と書いた。今、その苦手意識が薄れてきてはいるものの全くなくなった訳ではない。けれど、それらを抜きにしても、私は親を尊敬している。彼女は強い。酸いも甘いも噛み締めつつ人生を歩み、やっと安堵して生活できる場所に辿り着いた。今の父親は私の親も私も大切にしてくれている。嬉しいことである。親のことは父親に安心して任せておけると思っている。なので私は、崖の多い山を選ぶことができたのだ。うちのが同じ山を選んでくれなければ、私はその山を登ることはできないが、それでも自分の中では選べた。私が選んでいる山を登り始めたら、実家への出入りはできなくなる。親を始めとした身内の葬式にも呼んでもらえなくなる。覚悟の上で選んだ。親には親で守るべきものがあるのだから仕方がない。それでも最終的にその山を登りきれなかったときは、戻ってきてもいいという道は残してくれた。私がこの山を選べたのも、親が最後に残してくれた道があるからである。うちのの犯した過ちは、繰り返されることが多いと一般的に認識されている。統計上の数字にも顕著に表されているが、少数ながら更正できた者もいるのも確かだ。山を登り始めたが最後、親の葬式には呼んでもらえなくなるらしい。それでも私は押しかけて、更正できる人間もいるということを、臨終時に教えてやりたいと思う。
コラム形式で日記を書いているので、これ迄敢えて説明していなかったことを、ここに明記する。私が書…
昨夜の話し合いでひとつ解ったことがある。うちのと私とでは、家族、というものに対する考え方が大きく違っているようだった。私は、血は水よりも濃い、などという言葉を信じてはいない。それが本当ならこの世に遺産相続争いなどあり得ない。また私の今の父親は法的にはふたり目であり、実質的には3人目に等しい。家族など代替の利くものだと思っている。また私の病気の根源が幼少期からの親子関係にあるように、親が離婚を決意した時の気持ちと同様に、親はいればいいというものではないと思っている。うちのは違うらしい。末っ子の長男として甘やかされて育ち、今はひとり立ちをしてはいるものの、親兄弟はかけがえのないものだと考えているようだ。そのような考えの持ち主であるうちのは、やっと相互理解できてきた私と親との関係を壊したくないと思っているらしい。そう思ってくれるのは有難い。有難いのだが、その意見を採用すると私が登ろうと腹を括った山には登れなくなる。育った環境の違いを大きく感じさせられた。私とて親を粗末に考えている訳ではない。親は親で大事である。しかし親よりも大事だと思えるものがあるのだ。うちのは過去の過ち故に、私に限らずどんな相手であっても、皆に祝福されて結ばれるという望みは薄い。それが今、私たちが抱えている問題で解ったらしい。私は皆に祝福される必要などないと思っている。本人たちが幸せならばそれでいいではないか。うちのは皆に祝福されて結ばれることを望んでいる。そんな考えは捨ててしまえ。無駄だ。望むのは自由だが、余りにも期待の薄い台にしがみついて全財産を北に貢ぐようなものだ。どこかで割り切る、見切りをつける必要がある。私は今、うちのに皆からの祝福というものに見切りをつけてもらいたいと思っている。自己犠牲は宜しくない。
私は自分が登りたいと思っている山をうちのに示した。その山を登るにあたっての条件もつけた。うちのはそれらを全て理解及び納得はしてくれた。後は実践が伴うかどうかである。伴わなければ、私がその山を選ぶ価値はない。うちのにだけ条件を課した訳ではなく、自分にもクリアすべき諸々がある。ふたりでそれを乗り越えたい。自業自得に自己犠牲。そんなものでうちのが別の山を選び、私の幸せを最優先してくれてしまうと、今度は私に罪悪感が残る。うちのは私と同じ山を選ぶと罪悪感が伴い、その罪悪感に負けそうだと言っていた。過去の過ちからして、うちのは精神的に弱い人間である。私も精神科通いをしていることだけでも判るように、メンタル面が強い人間ではない。それでもうちのよりは多少なりとも強いつもりだ。ならば強い方に弱い方が甘えてしまえば良いではないか。どの山を選んでもどちらかに罪悪感は伴うのである。私に甘えて欲しい。そして私の甘えることで罪悪感に負けそうだと言うならば、その負けそうな気持ちを乗り越える強さを身につけて欲しい。弱い人間同士である。共に強くなりたい。
私の親の最初の結婚は破綻した。昨日初めて聞かされたことであるが、私の親も結婚にあたり周囲の反対を押し切って強引に入籍したらしい。私の親は同じ轍を私に踏んで欲しくないと願っている。子を思う親の気持ちは有難い。けれど、私の親の結婚が破綻したからといって、私の結婚が同様に周囲の反対を押し切ったものだからといって、破綻するとは限らないのだ。可能性はゼロではない。それは破綻する可能性・破綻しない可能性、両方に言える筈だ。リスクの高い方に賭けて欲しくないという親の気持ちはよく解る。けれど、忘れてはいまいか。私は実の父親の血を引いた娘であり、根っからの博打打ちなのだ。リスクの高い博打に程、遣り甲斐を感じるのが博打打ちの性である。私が、血は水よりも濃い、などと思っていないことはさっき書いた。それでも私の血は両親の血を引いた物であり、母親の血よりも父親の血の方が濃いと感じることはある。精神的弱さ、博打好き。母親は強い人間である。その強さを親の意に沿わない形で引き出そうと、今の私はもがいている。前に、親が嫌いではないが苦手ではある、と書いた。今、その苦手意識が薄れてきてはいるものの全くなくなった訳ではない。けれど、それらを抜きにしても、私は親を尊敬している。彼女は強い。酸いも甘いも噛み締めつつ人生を歩み、やっと安堵して生活できる場所に辿り着いた。今の父親は私の親も私も大切にしてくれている。嬉しいことである。親のことは父親に安心して任せておけると思っている。なので私は、崖の多い山を選ぶことができたのだ。うちのが同じ山を選んでくれなければ、私はその山を登ることはできないが、それでも自分の中では選べた。私が選んでいる山を登り始めたら、実家への出入りはできなくなる。親を始めとした身内の葬式にも呼んでもらえなくなる。覚悟の上で選んだ。親には親で守るべきものがあるのだから仕方がない。それでも最終的にその山を登りきれなかったときは、戻ってきてもいいという道は残してくれた。私がこの山を選べたのも、親が最後に残してくれた道があるからである。うちのの犯した過ちは、繰り返されることが多いと一般的に認識されている。統計上の数字にも顕著に表されているが、少数ながら更正できた者もいるのも確かだ。山を登り始めたが最後、親の葬式には呼んでもらえなくなるらしい。それでも私は押しかけて、更正できる人間もいるということを、臨終時に教えてやりたいと思う。
コラム形式で日記を書いているので、これ迄敢えて説明していなかったことを、ここに明記する。私が書…
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