現在、6日に日付が変わったばかり。
身辺に纏わる精神の動きがかなりの変化をし始め、疲れてきている。考えなければならないこと、継続が必要なこと、断ち切らなければならないことの山脈の狭間で身動きが取れなくなっている。こういうときは無理に動くと碌なことがない。そして下手の考え休むに似たり。休むに似た考えで脳をフル回転させて知恵熱を出すのは莫迦莫迦しいので休む。休むと言いつつ昨日は家事をこなし、今日は病院に行ってきた。体調が不良状態で不安定だった為にまた中二週。週一と一応は約束されているが薬の処方でかなり私の意見を通してもらっているので中二週でも特に困らない。飲み方も処方上の注意よりも心身の状態重視なので足りなくなるということもまずない。主治医も私の飲み方をある程度信用してくれている。1日の許容量を破ったのは希死念慮が最高潮に達した1度のみであり、それ以外は許容量の範囲で調整しているからだろう。血液検査の結果も異常なし。半年以上の服薬で異常値がないのはよくあることなのだろうか? 何かしらで異常値が出ることを覚悟していたので拍子抜けした。尤も異常値などないに越したことはなく、安心もしている。必要以上の薬を出したがらない主治医に感謝。そして今日はレスタスをやっと処方から外してもらえ、しかもパキ増量。3度目か4度目かの交渉だった。それ迄はずっと「効いている実感はなくても底の方で支えてくれている薬だから」と処方され続けていたのだ。効いている実感の伴わない薬などいらん。パキは効いている実感が伴っているので好きだ。寝逃げできないけれど抑うつ状態が酷くなったときに投薬するつもりでのパキ増量である。面倒なのでこんな説明はしなかったが。パキは個人によって、またその場そのときによって適量が変わる薬であるらしい。適量より多くても少なくても効かないようである。なので現状の服薬量を守りつつ念の為の増量だ。状況に合わせて上手く調整できればしめたものである。私の処方内調薬は今迄成功しているので、今回も大丈夫だろうと楽観視している。
冒頭の話に戻る。考えるという行為はしようと思ってするときと、しないでおこうと思ってもしてしまうときがある。今、私が考えなければならないことは脳の大部分を占めている為、後者になってしまう。こういう場合の対策は敢えて意図的に違う物事を考えることである。そしてタイトルに繋がる。私には10年くらい前から抱き続けている野望がある。大いなる野望過ぎて生きている間には叶わないくらいの野望だ。油田を掘り当てたいとか、その手の妄想とは少し違う。私の野望とは、多くの他者の書いた文章から一文ずつ抜き取って一篇の小説を編むことである。漱石から一文、ヘミングウェイから一文、荘子から一文……といった具合に様々な書物から一文ずつを抜き取って、ひとつのオリジナルの作品を作ってみたいのだ。美術でいうところのコラージュにあたるか。例え実現できたとしても著作権の問題も絡むだろうから発刊には至らないだろうから、一個人の読書という趣味の延長上の作品となるだろう。
初めにこの野望を抱いたのは、学生時代に手当たり次第に本を読み漁っていた頃である。例えば「私は食べた」「彼はそれを手にした」などの簡潔な文章は様々な書物に出てくる一文である。それらも欠かせない一構成物となり、一篇の小説なり論文なりになっていることに気が付いた。ならば引用という形ではなく、数多ある書物から一文ずつ拾ってつぎはぎして一篇の小説が編めるのではないか? と思ったのだ。物理的には絶対に可能な筈である。写真集などを除けば、基本的には小説でも論文でも解説文でも、文章があってこそ成り立っている書物なのだから。漫画でもそうだ。大多数の漫画では、噴出し内に書かれた台詞や空白部分に書かれた心理描写の文章表現が存在している。コラージュしてオリジナル作品の作成は物理的には可能。なのに未だ実現には至っておらず、生きている間には叶わないかもというのは余りにも大きな壁が立ち塞がっているからに他ならない。
大きな壁。それは読書量である。私は近現代文学に強いと言われる或る学校の国文科を卒業しており、人並み以上に読書はしてきたつもりである。作家別の偏りはあるものの、ジャンル的にはそこそこの幅を網羅していると自負している。それでもまだまだ足りない。私の野望を実現可能にする為には現状の数千倍・数万倍の書物を読まねばなるまい。インテリゲンチャンこと高橋源一郎もなかなかの読書家ではあるが全然足りない。論外に近い程足りない。真のインテリと自負している呉智英と、荒俣宏と山田五郎を足して100をかけたくらいの読書量が必要だろう。……無理だ。時間はあれどもそんな気力は今の私にはない。気力が戻ってきたら働きに出るべきであり、すると今度は時間がなくなる。余談だが呉智英と荒俣宏と山田五郎は私が尊敬する読書家であり、尚且つ思想家であり評論家であり文筆家である。私は物知りを見ると無条件に尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、その知識を持っている、というだけで尊敬に値すると思う。同様に私ができないことをできる人間も尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、それができるというだけで尊敬。他者からはこの尊敬は単純に見えるかもしれないけれど、自分にはない、物質ではないものを持っている人は凄いのだ。
その昔、私は小説家になりたいと本気で思っていた。諦めたのは小林恭二の電話男を読んだからである。今のように携帯電話が普及する前に書かれた作品であり、今から読んでも衝撃は薄いと思うので敢えてオススメはしない。彼の知名度は低いだろう。まずデビューが海燕という今は亡きマイナー文芸誌であり、数年前にやっとカブキの日で三島賞を取ったが映画化もドラマ化もされておらず、また三島賞そのものが一般的知名度の低い文学賞である。CXの深夜番組が充実していた頃に放映されていた、たほいや、という番組にたまに出演していた利き酒が特技の小説家とい……っても思い出せる人は殆どいないか。とにかく小林恭二は知名度は低いが、高クオリティの作家なのだ。卒論のテーマを決める際、結局は違う作家の某作品を選んだが最後迄、電話男と迷ったのを覚えている。あの頃、あの小説に出会えたことで私の人生は変わったと言っても過言ではない。
電話男で私が小説家になるのを諦めた……むしろ挫折したのは、私には0から1を作り出す能力が欠けていることを感じさせられたからだ。あの創造力は素晴らしい。そして小説家に最も必要なのは創造力だと私は思っている。文章力は二の次だ。私は文章はそれなりに書けるが創造力はない。なので今はもう引退しているが、文章にアドバイスを加えたり手直しを入れたりするエディター兼0から1を創造するのではなく1を10にも100にも膨らます作業をするライターになったのだ。創造力というものは努力して身に付けられるものなのだろうか。解らない。けれど小説を編んでみたいという気持ちは捨て切れない。因って生まれたのが、この野望である。野望を叶えるにも創造力を身に付けるにも文章力を伸ばすにも、どれにでも対応可能な努力は読書である。小説でも雑誌でも論文でも、はたまた漫画でも何でもいい。1日に1度は何らかの書物に触れることを忘れずに生活したい。手にした書物から今考えなければならないことのヒントを得られる可能性もある。活字不況真っ最中。けれど書物の持つ可能性、個人に与える影響は不況に負けずにいてもらいたいものである。
身辺に纏わる精神の動きがかなりの変化をし始め、疲れてきている。考えなければならないこと、継続が必要なこと、断ち切らなければならないことの山脈の狭間で身動きが取れなくなっている。こういうときは無理に動くと碌なことがない。そして下手の考え休むに似たり。休むに似た考えで脳をフル回転させて知恵熱を出すのは莫迦莫迦しいので休む。休むと言いつつ昨日は家事をこなし、今日は病院に行ってきた。体調が不良状態で不安定だった為にまた中二週。週一と一応は約束されているが薬の処方でかなり私の意見を通してもらっているので中二週でも特に困らない。飲み方も処方上の注意よりも心身の状態重視なので足りなくなるということもまずない。主治医も私の飲み方をある程度信用してくれている。1日の許容量を破ったのは希死念慮が最高潮に達した1度のみであり、それ以外は許容量の範囲で調整しているからだろう。血液検査の結果も異常なし。半年以上の服薬で異常値がないのはよくあることなのだろうか? 何かしらで異常値が出ることを覚悟していたので拍子抜けした。尤も異常値などないに越したことはなく、安心もしている。必要以上の薬を出したがらない主治医に感謝。そして今日はレスタスをやっと処方から外してもらえ、しかもパキ増量。3度目か4度目かの交渉だった。それ迄はずっと「効いている実感はなくても底の方で支えてくれている薬だから」と処方され続けていたのだ。効いている実感の伴わない薬などいらん。パキは効いている実感が伴っているので好きだ。寝逃げできないけれど抑うつ状態が酷くなったときに投薬するつもりでのパキ増量である。面倒なのでこんな説明はしなかったが。パキは個人によって、またその場そのときによって適量が変わる薬であるらしい。適量より多くても少なくても効かないようである。なので現状の服薬量を守りつつ念の為の増量だ。状況に合わせて上手く調整できればしめたものである。私の処方内調薬は今迄成功しているので、今回も大丈夫だろうと楽観視している。
冒頭の話に戻る。考えるという行為はしようと思ってするときと、しないでおこうと思ってもしてしまうときがある。今、私が考えなければならないことは脳の大部分を占めている為、後者になってしまう。こういう場合の対策は敢えて意図的に違う物事を考えることである。そしてタイトルに繋がる。私には10年くらい前から抱き続けている野望がある。大いなる野望過ぎて生きている間には叶わないくらいの野望だ。油田を掘り当てたいとか、その手の妄想とは少し違う。私の野望とは、多くの他者の書いた文章から一文ずつ抜き取って一篇の小説を編むことである。漱石から一文、ヘミングウェイから一文、荘子から一文……といった具合に様々な書物から一文ずつを抜き取って、ひとつのオリジナルの作品を作ってみたいのだ。美術でいうところのコラージュにあたるか。例え実現できたとしても著作権の問題も絡むだろうから発刊には至らないだろうから、一個人の読書という趣味の延長上の作品となるだろう。
初めにこの野望を抱いたのは、学生時代に手当たり次第に本を読み漁っていた頃である。例えば「私は食べた」「彼はそれを手にした」などの簡潔な文章は様々な書物に出てくる一文である。それらも欠かせない一構成物となり、一篇の小説なり論文なりになっていることに気が付いた。ならば引用という形ではなく、数多ある書物から一文ずつ拾ってつぎはぎして一篇の小説が編めるのではないか? と思ったのだ。物理的には絶対に可能な筈である。写真集などを除けば、基本的には小説でも論文でも解説文でも、文章があってこそ成り立っている書物なのだから。漫画でもそうだ。大多数の漫画では、噴出し内に書かれた台詞や空白部分に書かれた心理描写の文章表現が存在している。コラージュしてオリジナル作品の作成は物理的には可能。なのに未だ実現には至っておらず、生きている間には叶わないかもというのは余りにも大きな壁が立ち塞がっているからに他ならない。
大きな壁。それは読書量である。私は近現代文学に強いと言われる或る学校の国文科を卒業しており、人並み以上に読書はしてきたつもりである。作家別の偏りはあるものの、ジャンル的にはそこそこの幅を網羅していると自負している。それでもまだまだ足りない。私の野望を実現可能にする為には現状の数千倍・数万倍の書物を読まねばなるまい。インテリゲンチャンこと高橋源一郎もなかなかの読書家ではあるが全然足りない。論外に近い程足りない。真のインテリと自負している呉智英と、荒俣宏と山田五郎を足して100をかけたくらいの読書量が必要だろう。……無理だ。時間はあれどもそんな気力は今の私にはない。気力が戻ってきたら働きに出るべきであり、すると今度は時間がなくなる。余談だが呉智英と荒俣宏と山田五郎は私が尊敬する読書家であり、尚且つ思想家であり評論家であり文筆家である。私は物知りを見ると無条件に尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、その知識を持っている、というだけで尊敬に値すると思う。同様に私ができないことをできる人間も尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、それができるというだけで尊敬。他者からはこの尊敬は単純に見えるかもしれないけれど、自分にはない、物質ではないものを持っている人は凄いのだ。
その昔、私は小説家になりたいと本気で思っていた。諦めたのは小林恭二の電話男を読んだからである。今のように携帯電話が普及する前に書かれた作品であり、今から読んでも衝撃は薄いと思うので敢えてオススメはしない。彼の知名度は低いだろう。まずデビューが海燕という今は亡きマイナー文芸誌であり、数年前にやっとカブキの日で三島賞を取ったが映画化もドラマ化もされておらず、また三島賞そのものが一般的知名度の低い文学賞である。CXの深夜番組が充実していた頃に放映されていた、たほいや、という番組にたまに出演していた利き酒が特技の小説家とい……っても思い出せる人は殆どいないか。とにかく小林恭二は知名度は低いが、高クオリティの作家なのだ。卒論のテーマを決める際、結局は違う作家の某作品を選んだが最後迄、電話男と迷ったのを覚えている。あの頃、あの小説に出会えたことで私の人生は変わったと言っても過言ではない。
電話男で私が小説家になるのを諦めた……むしろ挫折したのは、私には0から1を作り出す能力が欠けていることを感じさせられたからだ。あの創造力は素晴らしい。そして小説家に最も必要なのは創造力だと私は思っている。文章力は二の次だ。私は文章はそれなりに書けるが創造力はない。なので今はもう引退しているが、文章にアドバイスを加えたり手直しを入れたりするエディター兼0から1を創造するのではなく1を10にも100にも膨らます作業をするライターになったのだ。創造力というものは努力して身に付けられるものなのだろうか。解らない。けれど小説を編んでみたいという気持ちは捨て切れない。因って生まれたのが、この野望である。野望を叶えるにも創造力を身に付けるにも文章力を伸ばすにも、どれにでも対応可能な努力は読書である。小説でも雑誌でも論文でも、はたまた漫画でも何でもいい。1日に1度は何らかの書物に触れることを忘れずに生活したい。手にした書物から今考えなければならないことのヒントを得られる可能性もある。活字不況真っ最中。けれど書物の持つ可能性、個人に与える影響は不況に負けずにいてもらいたいものである。
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