消耗品か限定品か
2003年11月4日 メイク・ファッション・ピアス 今日は朝から入浴し、垢太郎を作り、布団を干し、洗濯をし、買い物に行き……力尽きて昼寝した。気付いたら19:30。病院、終わってた。貯薬が減ってきているので明日こそ行かねば。垢太郎は嘘である。どれくらい入浴していないかをふたりの友人に話したところ、両者からその単語が出てきたのだ。垢太郎、そんなに有名なのか? せめて三年寝太郎くらいにして欲しいものである。垢太郎は女としていかんだろう! しかしそのいかん状態にしていたのは自分自身なのだから仕方なく、また垢太郎が作れるほどに垢が出なかったことにがっかりなどはしてはならない。断じてがっかりなどしていない。最近の私は本当に酷い状態だったのだ。抑うつ傾向が強まり且つ継続的微熱により常時疲労状態で入浴どころの体調ではなかったのである。入浴しなければ着替えない。敢えて書かないがこの不入浴期の私の恰好は酷い物であった。簡単に例えるなら、新宿西口にいそうな定住所を持たないオバハン。今日は入浴したので清潔だ。そしてまともな恰好をしている。入浴しなくてもネットオークションという便利な物のお陰で出かけずとも買い物ができるため、相変わらず衣類は増殖し続けている。
今日の服装。トップス。インポート物の焦げ茶に赤い三つ釦のヴィンテージ加工ストレッチジャケットのインに、45rpmの茶ベースに青と白のチェックが入ったネルシャツ、更にそのインにローズバッドの緑寄りカーキにピンクの花とドットラメがプリントされたカットソー。ボトムスはスイートキャメルのローライズブラックデニムの上に、スカラーのピンクの前スリット入りストレッチカーゴスカート。そしてレトロな紫レースの靴下にヴィンテージ物の茶色いヒール。帽子はローズバッドのリバーシブル帽のカーキ一色の面を表にして被り、鞄はいつもの一澤帆布の国防色ミニトート。おまけにシルバーのロングピアスまで付けていた。今朝迄の私とは、外の人が替わったかのような恰好である。しかもジャケット・靴下・鞄・ピアスを除けば、全て自分にとっては新品のものばかりであった。自分にとっては、というのは中古品が多いからである。今日、身につけていた物の中に曲者がひとつある。最初に書いたジャケットだ。このジャケットは大変に着易くシルエットも綺麗で、この秋とても重宝している。他者にも何度かお褒めいただいたことがある逸品である。けれど、このジャケットの入手方法は決して大声では言えないのだ。何故なら……ゴミ捨て場に捨ててあった物だから。
1ヶ月程前だっただろうか。朝、ゴミを捨てに行った。ゴミを置こうとして目に入ったのがビームスの紙袋である。ゴミ袋に入れられておらず、その紙袋の取っ手部分だけが縛られており、中が丸見えの状態だった。中身は全て布類であり、私がゴミを捨てる際にするような拾われ防止策の煙草の吸殻まぶしなどはされていなかった。好奇心とは暴走し易いものである。ゴミを捨てに行ったのが8時頃。通勤通学の為に駅へと足を進める一般の方々の白い目など気にもせずに無心に漁った。するとお宝がどっさりと入っていたのだ。上記ジャケットを始め、インポート物・ブランド物のコート・ジャケット・スカートなど……お持ち帰り決定である。厳密に言えば私のした行為は違法だが気にしない。目の前のゴミの山にお宝があれば拾いたくなるのが人情だろう。私は法に縛られた機械的な人間ではなく人情に厚い人間なのだ、と言い訳させて貰う。人情という言葉の使い方が間違っているのも気にしない。前にちらっと所有衣類を減らしたいが難航しているという話を書いたと思う。このゴミの捨て主はきっと衣類を無駄に溜め込むことのない人なのだろう。尊敬する。拾ってきた中には確かに破れてもう着られないものもあった。それでも大半は新品同然なのだ。流行遅れになった物という訳でもない。むしろ今着ないでどうする? というような物も多かったし、ヴィンテージ物などは流行に囚われることも余りない。素材・縫製・ブランドタグのどれを見ても箆棒に高くはなさそうではあるが、そこそこの値はした筈の物ばかりだった。そのゴミ袋の中にツモリやズッカの新品タグが切って入れられていたので、恐らくは新しい服を購入したので前から持っていた物を捨てたのであろう。収納の達人の技を実践できている人のようだ。反面、私は服を減らしたいという野望を抱きつつもゴミ捨て場から服を拾ってきてしまう人間である。この違いは何なのだろう。
私が衣類を捨てる場合の多くは、大きなシミを作ってしまったときや自分では補修できない破れを作ってしまったときである。まず釦を全部切り取る。他の服の釦がなくなったときの交換用にする為だ。それからどこかしらに鋏でざっくりと切込みを入れる。私のような不届き者に拾われて再利用されたら悔しいからである。下着類の処分は必ず生ゴミと一緒の袋に入れる。最後に灰皿に山と溜まった吸殻を全体にまぶしてから捨てに行く。究極の貧乏根性である。自分が要らなくて捨てた物、下着類は別としても服などは再利用されたって構わないではないか、と思わなくもない。しかしどこかに再利用される悔しさを感じてしまう。尤もシミや破れがあるのが大前提なのだから再利用のしようもないとは思うのだが、それでも拾った主がシミ抜き名人だったら、補修名人だったら、と思うとどうにも悔しい。私もシミ抜き名人や補修名人になりたいと切に思う。ここ迄書いて気が付いた。お宝を捨てた主と私との一番の違いは、服への思い入れではないだろうか? 私は自分の所有している衣類の殆どが値段に関係なく好きであり、とても愛着がある。捨てた主は服への思い入れが少ないのではないだろうか。世の中には、衣類とは着飾って傷んできたら捨てる消耗品、と考えられる人もいるらしい。服の代金はその着飾ったときの楽しい気分の代金である、という考え方である。ライヴ料金のような考え方だ。理解も納得もできる。けれど実践はできない。消耗品と考えるには価格が高いのが一番の理由であるが、以前も書いたように衣類は定番商品を除いて、そのシーズン限りの限定品なのである。一度手放したら最後、なかなか再会できることはない。そう思ってしまうともう簡単には手放せなくなってしまうのだ。
一般論。ふたりの子供を持つ親がいる。3人でも4人でもいいが計算を簡単にするためにふたりとする。愛情はひとりに50%、ひとりに50%ではなく、ふたりともに100%の愛情を注ぐものらしい。私の衣類はどんどんぐんぐんばんばんじゃんじゃん増殖している。それら全てに100%の愛着がある……とは言えないが、どれもに80%程度の愛着があるのだ。これがあるからこっちはいらないとは決してならず、これとこれは似ているけれどここが微妙に違っていて両方のその微妙な違いが好き、となる。私はいい親になれそうだ。と、綺麗なオチをつけたいところだが私は生涯子供を持つ気がないので、永遠に服屋や出品者のいいカモであり続けるのだろう。
今日の服装。トップス。インポート物の焦げ茶に赤い三つ釦のヴィンテージ加工ストレッチジャケットのインに、45rpmの茶ベースに青と白のチェックが入ったネルシャツ、更にそのインにローズバッドの緑寄りカーキにピンクの花とドットラメがプリントされたカットソー。ボトムスはスイートキャメルのローライズブラックデニムの上に、スカラーのピンクの前スリット入りストレッチカーゴスカート。そしてレトロな紫レースの靴下にヴィンテージ物の茶色いヒール。帽子はローズバッドのリバーシブル帽のカーキ一色の面を表にして被り、鞄はいつもの一澤帆布の国防色ミニトート。おまけにシルバーのロングピアスまで付けていた。今朝迄の私とは、外の人が替わったかのような恰好である。しかもジャケット・靴下・鞄・ピアスを除けば、全て自分にとっては新品のものばかりであった。自分にとっては、というのは中古品が多いからである。今日、身につけていた物の中に曲者がひとつある。最初に書いたジャケットだ。このジャケットは大変に着易くシルエットも綺麗で、この秋とても重宝している。他者にも何度かお褒めいただいたことがある逸品である。けれど、このジャケットの入手方法は決して大声では言えないのだ。何故なら……ゴミ捨て場に捨ててあった物だから。
1ヶ月程前だっただろうか。朝、ゴミを捨てに行った。ゴミを置こうとして目に入ったのがビームスの紙袋である。ゴミ袋に入れられておらず、その紙袋の取っ手部分だけが縛られており、中が丸見えの状態だった。中身は全て布類であり、私がゴミを捨てる際にするような拾われ防止策の煙草の吸殻まぶしなどはされていなかった。好奇心とは暴走し易いものである。ゴミを捨てに行ったのが8時頃。通勤通学の為に駅へと足を進める一般の方々の白い目など気にもせずに無心に漁った。するとお宝がどっさりと入っていたのだ。上記ジャケットを始め、インポート物・ブランド物のコート・ジャケット・スカートなど……お持ち帰り決定である。厳密に言えば私のした行為は違法だが気にしない。目の前のゴミの山にお宝があれば拾いたくなるのが人情だろう。私は法に縛られた機械的な人間ではなく人情に厚い人間なのだ、と言い訳させて貰う。人情という言葉の使い方が間違っているのも気にしない。前にちらっと所有衣類を減らしたいが難航しているという話を書いたと思う。このゴミの捨て主はきっと衣類を無駄に溜め込むことのない人なのだろう。尊敬する。拾ってきた中には確かに破れてもう着られないものもあった。それでも大半は新品同然なのだ。流行遅れになった物という訳でもない。むしろ今着ないでどうする? というような物も多かったし、ヴィンテージ物などは流行に囚われることも余りない。素材・縫製・ブランドタグのどれを見ても箆棒に高くはなさそうではあるが、そこそこの値はした筈の物ばかりだった。そのゴミ袋の中にツモリやズッカの新品タグが切って入れられていたので、恐らくは新しい服を購入したので前から持っていた物を捨てたのであろう。収納の達人の技を実践できている人のようだ。反面、私は服を減らしたいという野望を抱きつつもゴミ捨て場から服を拾ってきてしまう人間である。この違いは何なのだろう。
私が衣類を捨てる場合の多くは、大きなシミを作ってしまったときや自分では補修できない破れを作ってしまったときである。まず釦を全部切り取る。他の服の釦がなくなったときの交換用にする為だ。それからどこかしらに鋏でざっくりと切込みを入れる。私のような不届き者に拾われて再利用されたら悔しいからである。下着類の処分は必ず生ゴミと一緒の袋に入れる。最後に灰皿に山と溜まった吸殻を全体にまぶしてから捨てに行く。究極の貧乏根性である。自分が要らなくて捨てた物、下着類は別としても服などは再利用されたって構わないではないか、と思わなくもない。しかしどこかに再利用される悔しさを感じてしまう。尤もシミや破れがあるのが大前提なのだから再利用のしようもないとは思うのだが、それでも拾った主がシミ抜き名人だったら、補修名人だったら、と思うとどうにも悔しい。私もシミ抜き名人や補修名人になりたいと切に思う。ここ迄書いて気が付いた。お宝を捨てた主と私との一番の違いは、服への思い入れではないだろうか? 私は自分の所有している衣類の殆どが値段に関係なく好きであり、とても愛着がある。捨てた主は服への思い入れが少ないのではないだろうか。世の中には、衣類とは着飾って傷んできたら捨てる消耗品、と考えられる人もいるらしい。服の代金はその着飾ったときの楽しい気分の代金である、という考え方である。ライヴ料金のような考え方だ。理解も納得もできる。けれど実践はできない。消耗品と考えるには価格が高いのが一番の理由であるが、以前も書いたように衣類は定番商品を除いて、そのシーズン限りの限定品なのである。一度手放したら最後、なかなか再会できることはない。そう思ってしまうともう簡単には手放せなくなってしまうのだ。
一般論。ふたりの子供を持つ親がいる。3人でも4人でもいいが計算を簡単にするためにふたりとする。愛情はひとりに50%、ひとりに50%ではなく、ふたりともに100%の愛情を注ぐものらしい。私の衣類はどんどんぐんぐんばんばんじゃんじゃん増殖している。それら全てに100%の愛着がある……とは言えないが、どれもに80%程度の愛着があるのだ。これがあるからこっちはいらないとは決してならず、これとこれは似ているけれどここが微妙に違っていて両方のその微妙な違いが好き、となる。私はいい親になれそうだ。と、綺麗なオチをつけたいところだが私は生涯子供を持つ気がないので、永遠に服屋や出品者のいいカモであり続けるのだろう。
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