文明の利器が刺激するコンプレックス
2003年11月3日 雑感・所感 久々に憧れのかわいい友人からメールがきた。ので、電話した。私はメールを貰っても遠方の友人でなければ返信では済ませず、電話をかけることが多い。近況報告が短く済まないからである。また声で相手の調子が判るのも良い。特にこの友人は自分の都合の悪いときには電話には出ないので、相手の時間の都合なども余り考える必要がなく気軽にかけられる。以前聞いたことだが、彼女にとって電話とは自分の都合の良いときにかけ、自分の都合の良いときにのみ出るものらしい。この考え方は良いと思う。私は自分に都合が悪いときにでも電話に出てしまう。発作の真っ只中で呼吸さえも苦しいときにでも、電話が鳴れば出る。莫迦である。そんな状況にあるのに電話に出る必要はないのだ。なのに条件反射的に出てしまうのは悪い癖のひとつなのだろう。電話がかかってきているのに出ないという行為にとても罪悪感を感じてしまう。かけてきてくれた相手に申し訳なさを感じてしまうのだ。不必要である。電話とは一方的に用件のある人間が相手にかけるものであり、強制されるものではない筈なのに。私の電話への考え方は親からの刷り込みが強いと思われる。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
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