中の人が替わった模様
2003年11月1日 家族・メンヘル・健康など 現在2日早朝。
長く微熱が続いている。自律神経の狂いが原因のようだ。ここ数ヶ月の私の平熱は36.8℃である。異常だ。しかもここ数日は風邪をひいたらしく37.1〜37.2℃で安定している。心身共に健康だった頃の平熱は36.1℃だった。常に疲労状態である。予定では今頃はライヴ疲れで熟睡している筈だった。なのに今こうして日記をつけているということは……寝過ごした。ちょっとだけという常套句の元に昼寝をしてしまい起きたら20:00近く。開場は18:00、開演は18:30。すぐさま出かければ恐らくトリを飾ったであろう愛しの君を観ることはできたかもしれない。しかし出かけられなかった。今もまだ私はばっちいのだ。のそのそと起きて夕食を作るも鍋底全面を焦がす始末。碌でもない日であった。足の小指をどこかの角にぶつけて怒りの持って行き場が見当たらないような、そんな鬱々とした気分が今も続いている。一昨日からいろいろな歯車が狂い始めている。そして私は今、真剣に自分の未来を考えなければならないときに差しかかっているらしい。物事を考えるのは好きである。けれど患ってからの私は自分の将来についてなど、自身の諸々について考えるのは非常に苦手だ。何故なら将来も未来も要らないからである。なのに考えろと言われ、東風荘などに逃避している。困った状況だ。
私は親への愚痴をうちのに溢し、うちのへの愚痴を親に溢すことで精神の安定を保っている。うちのの寝起きは凶悪である。一昨日の朝、うちのに暴言を吐かれ、挙句布団越しにだが数度に渡り蹴飛ばされた。そのとき私は寝た振りをしていた。うちのの寝起きには立ち会いたくないのだ。嫌味や小言や因縁や、とにかく文句を言われるからだ。本人は半無意識らしいがこちらは意識があるので腹も立つ。何度も蹴られ、寝た振りをやめて起きた。延々と嫌味や文句を言いつつうちのは出社した。一緒に暮らし始めてからうちのの寝起きは変わっていない。普段はいろいろ不愉快なことを言われても、ストレスが溜まっているんだな、今の私にできることはそのストレスを受け止めるくらいだから仕方ないな、と我慢してきていた。因って言葉の暴力にはある程度慣れているつもりであるが、肉体的暴力となると話が変わってくる。うちのが出社してからすぐにYahoo!にて「言葉の暴力」「DV」で余り期待せずに検索をかけた。沢山のページが引っかかった。肉体的な暴力だけでなく言葉の暴力もDVだったのか! とても損をしていた気がした。私はDV=肉体的暴力だとしか思っていなかったのだ。うちのに解り易いページのURLと嫌味を書いたメールを送りつけた。そして親へと電話して愚痴を溢した。
私は自分の母親を地軸と例えることが多い。そのココロは自分基準で世界が回っている。そういう人なのだ。と思っていたが、一昨日の親は違っていた。とても驚いた。他者である私の話がきちんと最後迄聞け、そしてその話を理解できる人になっていたのだ! 当たり前のことのようだが、今迄が今迄だったので驚愕した。まるで親の中の人が替わってしまったかのようだった。元に戻らず、今の中の人にずっと親の中の人を勤めていただきたいと切に願う。まともな会話を成立させられるようになった親から、いろいろとためになる言葉が出てきた。まずは「言葉の暴力から肉体的暴力に発展する例は多い」。ふむ。私はこれ迄は分けて考えていたのだが、実際に一昨日の朝のような目に遭うと実感を伴ってすんなりと理解ができた。それから「努力と我慢は違う」。凄い! 私の親からベタではない目から鱗が落ちるような格言らしき言葉が出てくるとは! 私が病気になってから親は「私も勉強しているけど」との前置きをつけて頓珍漢なことばかりを述べていた。なので勉強しているつもりになっているだけだと思っていた。違ったようだ。親の経験訓と反省と勉強の成果が一昨日の私にはとてもよく伝わった。子供の成長に驚く親の話はよく聞くが、親の成長に驚く子供も多いのだろうか? それとも私くらいのものなのだろうか? いや、そんなことはどちらでもいい。なんだか親との蟠りが薄れる未来を感じさせられた会話だったことが私には大切なのだ。今の母の中の人なら何かで怒っても、これ迄のように私の人格全否定はしなさそうである。なので少し甘えさせてもらった。遂にうちのの裏を親に話したのだ。2年半もの間、ずっと隠し続けていた重大事である。実家に連れ戻される恐怖から言えずにいたこと。親はきちんと冷静に聞いてくれ、うちのへの非難も私への同情もしなかった。第三者としての意見と私の親としての意見をバランスよく言葉にしてくれた。話し終え、電話口で泣いてしまった。親がきちんと話を聞いてくれたことが嬉しかった。隠し事をしている後ろめたさから開放された。泪を流して泣いたのは久しぶりである。精神の一部分が浄化されたように思えた。元々私は隠し事が苦手な性質だ。この2年半の隠蔽は自分で思っていた以上に重責だったらしい。
来週末、1年ぶりくらいで実家に帰省することを決めた。うちのと一緒ではないひとりでの帰省と考えると2年ぶりくらいか。父親の誕生祝を都内某所で一緒にごはんでも食べてしようか、との親からの申し出に自ら変更を加えたのだ。私は病気になってから長距離の移動が苦手となった為、会うときはいつも親に私の最寄り駅から二駅のところ迄出てきてもらっていた。それを申し訳なく思っていたのがひとつ。もうひとつは今の親なら怖くなさそうに思えたのだ。私は幼少時から親への恐怖心を常に抱いていた。怒らせると、または勝手に怒り出すと私の人格を全否定されるからだ。その物事だけを怒るということができない人だった。できるようになったように思えた。その安心感に基づいての帰省決定である。予定としては1泊2日か2泊3日。長期滞在中にまた親の中の人が戻ると怖いので。現在の居住地から実家へは1時間強の距離である。この帰省中に心身の変動が起きなければ、年内には祖母のいる田舎に母と行くつもりだ。祖母は7人いる孫の中でも私を最も可愛がってくれている。過去の数年間、子供の頃の祖母と境遇がとても似ていた故の自己投影もあるのだろう。前回母が田舎に帰ったとき、祖母は他の孫の名前ではなく、私の名前ばかりを口にしていたそうである。数年前に祖父が亡くなり、今年・来年という話でもないが祖母ももう長くはないだろう。おばあちゃんに会いたい。
長く微熱が続いている。自律神経の狂いが原因のようだ。ここ数ヶ月の私の平熱は36.8℃である。異常だ。しかもここ数日は風邪をひいたらしく37.1〜37.2℃で安定している。心身共に健康だった頃の平熱は36.1℃だった。常に疲労状態である。予定では今頃はライヴ疲れで熟睡している筈だった。なのに今こうして日記をつけているということは……寝過ごした。ちょっとだけという常套句の元に昼寝をしてしまい起きたら20:00近く。開場は18:00、開演は18:30。すぐさま出かければ恐らくトリを飾ったであろう愛しの君を観ることはできたかもしれない。しかし出かけられなかった。今もまだ私はばっちいのだ。のそのそと起きて夕食を作るも鍋底全面を焦がす始末。碌でもない日であった。足の小指をどこかの角にぶつけて怒りの持って行き場が見当たらないような、そんな鬱々とした気分が今も続いている。一昨日からいろいろな歯車が狂い始めている。そして私は今、真剣に自分の未来を考えなければならないときに差しかかっているらしい。物事を考えるのは好きである。けれど患ってからの私は自分の将来についてなど、自身の諸々について考えるのは非常に苦手だ。何故なら将来も未来も要らないからである。なのに考えろと言われ、東風荘などに逃避している。困った状況だ。
私は親への愚痴をうちのに溢し、うちのへの愚痴を親に溢すことで精神の安定を保っている。うちのの寝起きは凶悪である。一昨日の朝、うちのに暴言を吐かれ、挙句布団越しにだが数度に渡り蹴飛ばされた。そのとき私は寝た振りをしていた。うちのの寝起きには立ち会いたくないのだ。嫌味や小言や因縁や、とにかく文句を言われるからだ。本人は半無意識らしいがこちらは意識があるので腹も立つ。何度も蹴られ、寝た振りをやめて起きた。延々と嫌味や文句を言いつつうちのは出社した。一緒に暮らし始めてからうちのの寝起きは変わっていない。普段はいろいろ不愉快なことを言われても、ストレスが溜まっているんだな、今の私にできることはそのストレスを受け止めるくらいだから仕方ないな、と我慢してきていた。因って言葉の暴力にはある程度慣れているつもりであるが、肉体的暴力となると話が変わってくる。うちのが出社してからすぐにYahoo!にて「言葉の暴力」「DV」で余り期待せずに検索をかけた。沢山のページが引っかかった。肉体的な暴力だけでなく言葉の暴力もDVだったのか! とても損をしていた気がした。私はDV=肉体的暴力だとしか思っていなかったのだ。うちのに解り易いページのURLと嫌味を書いたメールを送りつけた。そして親へと電話して愚痴を溢した。
私は自分の母親を地軸と例えることが多い。そのココロは自分基準で世界が回っている。そういう人なのだ。と思っていたが、一昨日の親は違っていた。とても驚いた。他者である私の話がきちんと最後迄聞け、そしてその話を理解できる人になっていたのだ! 当たり前のことのようだが、今迄が今迄だったので驚愕した。まるで親の中の人が替わってしまったかのようだった。元に戻らず、今の中の人にずっと親の中の人を勤めていただきたいと切に願う。まともな会話を成立させられるようになった親から、いろいろとためになる言葉が出てきた。まずは「言葉の暴力から肉体的暴力に発展する例は多い」。ふむ。私はこれ迄は分けて考えていたのだが、実際に一昨日の朝のような目に遭うと実感を伴ってすんなりと理解ができた。それから「努力と我慢は違う」。凄い! 私の親からベタではない目から鱗が落ちるような格言らしき言葉が出てくるとは! 私が病気になってから親は「私も勉強しているけど」との前置きをつけて頓珍漢なことばかりを述べていた。なので勉強しているつもりになっているだけだと思っていた。違ったようだ。親の経験訓と反省と勉強の成果が一昨日の私にはとてもよく伝わった。子供の成長に驚く親の話はよく聞くが、親の成長に驚く子供も多いのだろうか? それとも私くらいのものなのだろうか? いや、そんなことはどちらでもいい。なんだか親との蟠りが薄れる未来を感じさせられた会話だったことが私には大切なのだ。今の母の中の人なら何かで怒っても、これ迄のように私の人格全否定はしなさそうである。なので少し甘えさせてもらった。遂にうちのの裏を親に話したのだ。2年半もの間、ずっと隠し続けていた重大事である。実家に連れ戻される恐怖から言えずにいたこと。親はきちんと冷静に聞いてくれ、うちのへの非難も私への同情もしなかった。第三者としての意見と私の親としての意見をバランスよく言葉にしてくれた。話し終え、電話口で泣いてしまった。親がきちんと話を聞いてくれたことが嬉しかった。隠し事をしている後ろめたさから開放された。泪を流して泣いたのは久しぶりである。精神の一部分が浄化されたように思えた。元々私は隠し事が苦手な性質だ。この2年半の隠蔽は自分で思っていた以上に重責だったらしい。
来週末、1年ぶりくらいで実家に帰省することを決めた。うちのと一緒ではないひとりでの帰省と考えると2年ぶりくらいか。父親の誕生祝を都内某所で一緒にごはんでも食べてしようか、との親からの申し出に自ら変更を加えたのだ。私は病気になってから長距離の移動が苦手となった為、会うときはいつも親に私の最寄り駅から二駅のところ迄出てきてもらっていた。それを申し訳なく思っていたのがひとつ。もうひとつは今の親なら怖くなさそうに思えたのだ。私は幼少時から親への恐怖心を常に抱いていた。怒らせると、または勝手に怒り出すと私の人格を全否定されるからだ。その物事だけを怒るということができない人だった。できるようになったように思えた。その安心感に基づいての帰省決定である。予定としては1泊2日か2泊3日。長期滞在中にまた親の中の人が戻ると怖いので。現在の居住地から実家へは1時間強の距離である。この帰省中に心身の変動が起きなければ、年内には祖母のいる田舎に母と行くつもりだ。祖母は7人いる孫の中でも私を最も可愛がってくれている。過去の数年間、子供の頃の祖母と境遇がとても似ていた故の自己投影もあるのだろう。前回母が田舎に帰ったとき、祖母は他の孫の名前ではなく、私の名前ばかりを口にしていたそうである。数年前に祖父が亡くなり、今年・来年という話でもないが祖母ももう長くはないだろう。おばあちゃんに会いたい。
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