現在30日から31日に日付が変更されたばかり。

 本日、西洋では南瓜の行灯を持って黒装束を身に纏った餓鬼共が隣り近所を回って脅迫をしつつお菓子を分捕るという行事が実行されるようである。西洋の皆様、気をつけてください。日本にそんな行事がなくて本当に良かった。大人しく南瓜の煮付けでも食すのが秋の夜長の正しい日本人の姿である。

 そんな秋の夜長の大半を私はひとりで過ごしている。うちのが帰宅しないのだ。楽である。小言も言われなければセクハラもされず、好きなことをして遊んで夜更かしをしていても嫌味を言われない……淋しい。今夜はタクシーで帰宅すると言ってはいたが本当に帰ってこれるのだろうか? 尋常ではない仕事量に追われ、物凄く忙しそうである。昨日の朝、数日振りに顔を合わせた。げっそりとげんなりと帰宅し、早々に床に就き、90分だけ睡眠を取ってまた背中に哀愁を漂わせつつ出社した。朝ごはんも「作ってくれ」と言いつつ1/3程度しか食べなかったので栄養剤を飲ませて見送った。顔色が緑がかっていた気がする。死に体とはあのような姿のことを言うのだろう。代わりたくても手伝いたくても無理な話であり、本人に頑張って貰うしかない。本気で退社したいようである。生活できるだけの収入が得られれば転職してもらっても私は一向に構わない。うちのの会社はこのご時世にしてはいい給与を出してくれている。しかし仕事量とその給与を秤にかけると決して高くない。むしろ安い。うちのの仕事による会社の収益を思えば、後ン十万から百万くらい上げてくれても良さそうである。とにかくうちのはよく働いている。会社に服役しているかのように。

 うちのと私が付き合い同棲を始めた当初、私の親はうちのを嫌っていた。「碌な男じゃない。まともな男ならこんな女とは付き合わない」と言われた。私はワコか。この話には主治医も呆れていた。こうやって自己肯定という物は親によって私の手から遠ざけられて続けている。現在進行形。同棲開始から早4年。今、私の親は異様な迄にうちのに感謝をし信頼しきっている。私に実家で生活されるのは迷惑そうなので、うちのの元に置いておきたいのもあるだろう。それにしても話す度にうちのを褒める。「あんないい人はいない。裏切ってはいけない」と変化した。私の親はうちののとんでもない裏を知らない。教えていないのだから知らなくて当然なのだが、それでもこう毎回うちのの絶賛を聞かされていると、全てを白日の下に曝け出してやりたくなってくる。できない。曝け出したが最後、私はうちのに一生会えなくなってしまうだろう。親は私をここに置いておきたいと思い、私もこの安楽地にできる限り長くいたいと思っている。根拠は違えど利害は一致。一致していないのはうちののみであり、私に出て行って欲しそうな気配を見せることがたまにある。気持ちはとてもよく解る。私だってこんな女に居座られたら甚だ迷惑であり、警察を呼んででも追い払いたいところだ。塩も撒く。けれど私はうちのではないので知ったことではない。私のやっていることは押しかけ女房ならぬ押し込み強盗のようだが、今後改善を試み……ではなく心がけるというところでどうにか上手く気持ちに整理をつけて欲しいと願っている。できればペットを飼っているような気持ちで接して欲しい。諸事情により、一人前の大人として扱われると対応に困るのだ。

 友人たちはうちのの裏を知っている。一度はそれで底値に至ったが、現在は回復どころか高値になる一方だ。皆が口を揃えて「あんたと長年一緒に暮らせる男なんてあの人しかいないよ。大事にしなきゃダメだよ」と言う。面白くないことこの上ない。私は私なりにうちのを大切にしているつもりなのに、他者の目には多分に不足しているように映っているらしい。現状の数万倍尽くさなければダメなようだ。今より数万倍尽くす私を想像してみる。私ではなくそれは尽くしマシーンである。全ての行動に心が篭らなくなりそうだ。そもそも私と長年一緒に暮らせる男がうちのしかいないとはどういうことだ。まるで不細工な捨て猫のような言われようではないか。気に入らない。私と長年連れ添いたいと思う男はこの世に山と……いないか。うちのですら、最近はこう思ってくれているかどうか不安である。うちのが私を飼っていて良かったと思うのは、寝る前にマッサージをしてもらっているときらしい。一応書いておくが、性感ではなく凝りを解す為のマッサージである。私は自身が肩凝り腰痛の十年選手なので、素人にしてはそちらの腕がいいようだ。精々大切にしよう。私が持つ数少ない技術のひとつだ。いつか他の形でも役立つ日がくるかもしれない。今、もうひとつ思い出した。近所の馴染みの野良猫が病気になった際に動物病院に連れて行ったときも、俺にはできない良いことをしたと褒められた。この野良猫の話はまた後日改めて書きたいと思うが、取り敢えず私が野良への餌付け反対派であることだけはここでも述べておく。

 私の株価は現在、底値に近い価格で安定している。うちのは1分1秒毎に私の周囲の人間が高値にしていく。社員数が万を越す一部上場企業並みにうちのの株価は高い。4年の月日でこれだけ急上昇しているなんて何かの罠ではないか? ブラック・マンデーはいつだ? と不安になる程に高い。うちのと付き合い始める前は私の株価ももう少し高かった気がする。今では株式市場からいつ落ちるか、もしかしたら有限が株式の振りをして潜り込んでいるのではないかというくらいだ。そこで考えた。私は自他共に認めるダメ人間である。平均点が低い。うちのはダメな部分は私の比でないくらいにダメなのだがそのダメさは余り人目に付かず、長所は他者にも見え易く表面化している。因ってうちのの詳細を知らない人間は株価を上昇させる。近くに私という比較対象がある分うちのの株はより上昇し、うちのという比較対象がある分私の株価はより下落する。時代の問題なのか学校によるのかは知らないが、私が義務教育課程を受けていた頃は相対評価がされており、その先は絶対評価に変わった。人への評価も絶対評価にすべきだと主張したい。うちのの評価が高いのは嬉しくもある。高い評価を得られる男と付き合っているのは私にとって良いことだ。けれど私への不当な低い評価は戴けない。評価が低いのはダメ人間故に仕方がないが、今の評価は低すぎる。不当だ。

 料理だけでなく、主婦にも「さしすせそ」がある。裁縫・躾・炊事・洗濯・掃除。私は事実婚状態の似非主婦であり子供はいないので躾はともかく、他のよっつはこなせる。但し心身が共に好調なとき限定。心身のどちらかが不調だとこなせない。従って自然と我が家では釦の取れかけた服が増えたり、食事がコンビニ弁当になったり、着用済みの衣類が山積みになったり、部屋に埃が溜まったりする。心身共に好調というときが本当に稀なので仕方がないのだ。以前にも書いているが、上記事項に関して私は一切気にならない。うちのを始めとする他者は気にするらしい。なので私は尽くしていない、となる。できるだけのことはやっているのにこの評価、やはり不当である。絶対評価の導入を求める。1日はライヴである。前回は行けなかったが、今回は悪意の小心者の影に怯えず、愛しの君が作業服に身を包んで演奏し歌う姿を拝みに行きたい。心身の状態を整えねば。ライヴハウスは私にとって非日常の場なので意識的に心身の状態を整えてでも出かけるが、うちのとの生活は日常なのでそこ迄しない。できる範囲で構わないから、と日本人口の9割は知っているだろうあの歌でさだまさしも言っているのだから日常はそれでいい筈だ。日々死なないことで精一杯な私のできる範囲は猫の額程度に狭い。

BGM/「頽廃藝術展」

コメント