昨夜、友人と話をしている最中に途中で遮られた。「ちょっと失礼かもしんないけど」と言う。構わない。こんな切り出され方をされては却って「失礼と思うなら言うな」などとは言えない。「いいよ、何?」と訊くしかない。友人は言った「音楽の聴き方、上手くなったね」。失礼かも、の前置きは友人が私よりも年下であり、年上の人間を褒めるのはどうかと思ってのことだったのだろう。彼は私よりも5つ年下であるが、私よりも多くの音楽に触れて育ち、また今現在バンド活動をしている。自分よりもその物事に精通している者に褒められることは非常に嬉しいことである。精通していない者に褒められるのも勿論嬉しい。私は他者に褒められることが大好きなのだ。自己の存在を自身で認められない者にとって、他者からの賞賛は自己肯定の礎となる。それが他者への依存に他ならないのは重々承知であり、根源の解決にはなっていないが、日々死なないことで精一杯の人間には大切な物なのだ。この日記を読んでくれている友人らからもお褒めの言葉を幾つか頂戴している。それらの言葉は私の励みになり、生きる糧にもなっている。私の日記は読みづらい筈である。約3000文字という文字数制限をオーバーする日も少なくない。それでも読んでくれているというだけでも有難く、更に褒められると調子付く。世の中には褒められて伸びる人間と貶されて伸びる人間がいるとされている。私はそのどちらでもない。褒められれば喜んで現状満足に陥り、貶されると凹んで使い物にならなくなる。私を伸ばすのは自らの意思のみである。

 さて、昨夜の友人との会話の主題は何であったか。彼と私の共通項は同じバンドが好きということであり、昨夜も音楽談義であった。彼が或るバンドを知っているか、と私に訊いてきた。以前の日記でパクりバンドと述べたあのバンドであったので知っていた。アルバムを一枚聴いて見限っていたが。彼はそのバンドも好きらしい。ならば、と聴き直す為に複数の音源を頂戴してそこからはその音源を聴きつつの会話となった。パクりバンドと私が言うのは、私の好きなバンドが10年以上前からやっていることを、そのバンドは安易に後追いしているだけだと思っていたからである。改めて聴いてその認識が誤っていたことが判った。私の好きなバンドはオリジナリティとはまた別に数々の味があり、その味のひとつに土着性がある。それがない。洗練されている。機材もいい物を使っていそうで、それに頼っている感もあり音は都会的である。平たく書けば、私の好きなバンドの音よりもより現代的且つ聴き易くなっているのだ。けれどもやはりオリジナリティは見出せなかった。これらのことを彼に述べた。彼の気に入っているバンドを悪く言う気のはやや気が引ける行為であったが、自分の抱いた感想を嘘と遠慮で覆い隠すのは更に自身に気が引けるので正直に、ここに書いた以上に詳細に述べた。そして彼から出てきたのが冒頭の言葉である。彼との付き合いはそろそろ半年になろうか。当時の私は自分の感性のみで好き嫌いを分けて音を聴き、楽曲構成や機材のこと迄考えることはなかった。耳が肥えた訳ではないと思う。出戻りファンとなってからの日常が私の耳と文章力を向上させているのだろう。

 学生時代、何冊もの参考書や問題集を相手にするのではなく良い一冊で徹底的に勉強した方が効果的であり効率が良いと複数の教師に言われた。嘘だと思った。一冊を繰り返すと何頁の何問目の回答は〜〜だと記憶してしまう。それでは意味がないと考えていたのだ。あのとき素直にその言葉を聞いて勉強していれば今頃はハーバードを卒業し……などと夢物語を語りたくなる程にその教師らの言葉が正しかったことが、昨夜の友人の言葉で実感できた。継続は力であるのと同様に昔から抱いていた誤解が解けたのだ。反復練習は意味のある行為だ。日記を書きつつ音楽を聴いていた日は、必ず最後にBGMを記している。これらを一通り見れば判るように、私はしょっちゅう同じ物を聴いている。理由はふたつ。ひとつはそのアルバム若しくは楽曲が好きだから。もうひとつはPC内にmp3として保存せずにCDRに焼いてしまった音源やCDとして購入した物を収納ケースから取り出すのが面倒だから。よってBGMが余り代わり映えしていない。これが有効であったらしい。

 反復して聴いていると、さらっと聴き流すことができなくなる。楽曲構成も覚えれば歌詞も覚える。そして毎度同じ聴き方をしていれば飽きがくるので聴く際に重点を置く場所を日によって変えるようになった。トータルバランスを聴く日もあれば、ギターソロに耳を傾ける日もあるし、私の耳が苦手とするベース音拾いを試みる日もある。そして自己満足の一環として知人のサイトにてライヴレポートを書かせて貰うことも稀にあり、他者の書いたレポと比較して私には決定的に音楽・楽器その他諸々の知識が足りないことも判り、悔しかったのでほんの少しではあるが音楽について勉強するようになった。好きなジャンルであるHR/HMだけでなく、最新号及び最新刊を楽しみにしているのだめ効果で僅かながらクラシックの知識を得られているのも良い影響となっている気がする。少なくともプログレと言う概念を二方向から知ることができ、好きなバンドの楽曲の中で最も好きな一曲が、好きなのに何故か違和感を感じる楽曲であったことの原因が判明した。日記をつけ始めた当初、HNを何となくと誤魔化していたが、ここにこのHNがその好きな楽曲のタイトルであることをきちんと書く。本当はHNなど記号のひとつであり、出自を書いたりはしたくなかったのだがそうも言っていられなくなった。他者がこのHNをどう読んでいるかは知らないが、私が言うところのパクりバンドのボーカルがこのHNと同名だったことを昨夜知ってしまったのだ。誤解されたら堪らん。私が好きなのはそっちじゃない! こっちだ!

 日記をつけ始め、まだ量が多くないので日々自分の日記を読み直しては細かい部分に修正を加えている。PCでの変換ミスは言う迄もなく、言葉足らずな部分に補足を加えたり、不明瞭な言い回しを訂正したりしている。読み返すたびに語彙の貧困さを始めとし表現力の乏しさ、構成パターンの少なさ、悪しき癖を感じて落ち込む。同時に苦手だった分野や過去に文章化していなかった分野に踏み込めていることの実感も伴い、それらが上手く書ききれているかどうかは別として、新規開拓を試みている自分自身の心境変化に驚きを覚えたりもしている。これも手を変え品を変え、日記という物で日々反復して文章訓練している賜物であろう。最近友人らから貰うメールによく私自身の変化の指摘が書かれている。どうやらかなり前向きになっているらしい。気分変調が激しいので常に前向きではいられないのが難だが、全体的に以前のような投げやり感が薄れているらしい。良き哉、良き哉。

BGM/アルバム「封印廻濫」

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