さっき薬局に行ってきた。私の主飲料であるサントリーのウーロン茶は通常その薬局で購入している。コンビニと比較して1本あたり100円安い。混んでいるときと暇なときが極端な薬局で、さっきは混雑していた。それはいい。問題は客層である。女子高生やコギャルとヤンキーを足して2で割ったような連中が多かった。それもいい。どんな恰好をしていようと私に迷惑はかからない。目頭に入れられた白い「く」形のアイラインを暈してやりたくて仕方がなかったが余計なお世話である。しかし無闇にでかい声はどんなに嫌でも耳に入ってくるのだ。私は不必要に声のでかい人間が嫌いである。医療技術の進歩により、先進国の人間は長生きを半ば強制的にさせられている。如何に長生きを強いられようとも身体機能の衰えは止められない。その衰えのひとつとして聴覚機能の低下がある。簡単に言うと、耳が遠くなるのだ。耳が遠くなると自分の声も聞き取り難くなるらしく、自然と声が大きくなる。仕方がないことである。なので老年者の声の大きさには寛容である。いずれ自分も通る道。

 若年者の多くは聴覚に問題がない筈である。なのにやたらとでかい声を発する連中がいる。無論、緊急時などは大きな声を発する必要がある。必要性を伴う大声はいいのだ。不必要な大声が許せない。さっき薬局で不運にも遭遇した大声を発していた連中に必要性があったとはとてもではないが思えない。「えーっ! うっそー!」「やだあー!」。書くのも恥ずかしい程にベタな台詞であるが、本当にこう言っていたのだ。喧しい! 黙れ! 死ね! と言いたかったが言えなかった私は悔しいが弱気な人間である。何故、彼女らは周囲の迷惑も顧みずに大声を発するのだろう。強く自己主張をする際に大声を発することはままある。演説時の声の強弱の付け方などはその顕著な例であろうが、彼女らは薬局で演説をしていた訳ではない。仮に演説をしていたとしても上記のような台詞が出てくる演説は聞くに値しない。では聴覚が衰えているのだろうか。その可能性はゼロではない。ウォークマンを始めとする携帯用音楽再生機器の発達により、若年者にも難聴傾向があるとどこかで読んだことがある気がする。あの手の機器は本人しか楽しくなく、周囲にかける迷惑が大きい。音漏れだけでなく、難聴傾向による大声など。撲滅されればいいのに。撲滅は大袈裟か。携帯するにあたって免許制にするくらいが妥当かと思われる。是非とも行政に於いて免許制を導入して欲しい。

 話が逸れた。無闇な大声の話である。面倒なので結論から書く。無神経なのだ。自分とその仲間しか視野に入っておらず、自らの発する声が近くにいる第三者の耳にも入ることが全く考えられていないのだ。私は無神経な人間が嫌いであり、往々にして無神経な人間は無闇に大声を発する。因って無闇に大声を発する人間も軽蔑する。私はPDと諸事情により、時として神経過敏となり他者の声に過剰に反応してしまうことがある。病む前から無闇に大声を発する人間を嫌悪の対象としていた私だが、メンタル面で患っている者には特にこの傾向は少なくないと思う。彼女らはそういった人間もこの世で生活しており、また街や道で遭遇することを欠片も考えていないに違いない。この世とは様々な人間がいて成り立っており、全ての人間が自分と同じ性格や傾向を持ち合わせている訳ではないのだ。こういった視点が全く欠如している。患者の全てが松沢病院などに収容されている筈がないではないか。と言っても、彼女らは松沢病院の存在も知らないだろうが。

 8月だったか、主治医に怒鳴ったことがある。その日は炎天下であり、徒歩で通院している私は通院途中から予期不安に襲われ、クリニックに辿り着いたときにはへろへろになっていた。私の通うクリニックは個人経営であり、精神科・心療内科・神経科・内科を標榜している。多くの患者は精神科・心療内科カテゴリに括られるが、稀に内科カテゴリの患者もくる。因みに予約制ではなく早い者順に診察するクリニックだ。待合室に入ると3人の先客がいた。ひとりは私並みにへろへろだったので一切迷惑はかけられていない。問題は残るふたりのババアである。彼女らはとても健康そうで顔色もよく快活であった。恐らく内科の定期健診か何かできていたと思われる。ふたりは友人同士だったようで仲良さ気に会話を弾ませていた。主題は健康に良く簡単で美味しいジュースの作り方。ふむふむ、病院の待合室に適した題材の会話……ではない。帰れ! そんなに元気ならもっとでかい病院に行け! 精神科・心療内科カテゴリの患者の多い病院でみのもんたから仕入れたようなくだらない話をでかい声でするな! 病院でもこんな具合だ。どこにでも無神経な人間は有無を言わさず侵入してくる。順番がきて診察室に入る際、ドアが閉まりきる前に私は大声で言った。「勘弁してください! あのババアら、何とかしてください!」。ドアが閉まりきる前にというのは、ババアらにもこの声が届くように計算した上でのことである。日記だからババアと書いているのではない。「」内の言葉をそのまま主治医にぶつけた。主治医はババアらに注意をしてくれた。一旦声は止み、それからひそひそ声での会話になり、また大声に戻った。私はまた主治医に文句を言った。主治医はもう一度ババアらに注意をしてくれた。リピート。もう諦めて早々に診察室を出た。私が出てきたときのババアらの視線はいろんな意味で忘れられない。精神疾患患者として、私がこれから老いてゆく上での反面教師として。

 その昔、私は他者に注意をするのが得意であった。例えば通路の真ん中で立ち話をしている人に「ちょっとどいてください」、図書館や映画館で騒いでいる人に「静かにしてもらえませんか」など。病んでから言えなくなった。一度某ディスカウントショップにて会計が済んだものの人が多過ぎて身動きが取れなくなっていたところ、明らかに私より若いネーチャンに「ちょっと〜、通るんならさっさと通ってもらえますぅ〜?」と言われたときは文句を言いつつも通路を空けてくれたことへの感謝と同時に、自分の無力さに脱力した。或る友人に言われて初めて気が付いたことがある。「黒猫が怒っているところを見た記憶が殆どない。悔しがっているところは何度も見ているけれど」。別の友人にこの話をしたら彼女にも肯定された。自分の過去に思いを馳せてみて、確かに怒っていないことに気が付いた。私の諸事情は町沢静夫が言うところの内向性である。町沢は嫌いだが。私が過去に本気で怒れた相手は、歴代の彼氏たちのみである。親に対しても怒ったことは何度もあるが本気とは言えない。言葉のそこかしこに遠慮が潜んでいた。私は怒りを言葉にして相手にぶつけたり発散したりすることを抑圧されて育ったのだ。上記クリニックのババアらの件にしてもそうである。当人らに怒ってはおらず、主治医に悔しさをぶつけているだけだ。進歩していない。私の友人らはよくできた人間たちなので、今後も彼ら彼女らに怒ることはないだろうが、適切な場面に於いては怒れるようになりたいものである。今日得た教訓は、外に出る際には必ずパキを服用しておこうということである。パキは感情を平坦にしてくれるので、飲み忘れていなければ彼女らの大声にもここ迄過敏にはならなかった筈だ。感情が平坦になることで喜怒哀楽の実感は減る。因って怒ることもそうそうないだろう。私が本気で怒れる日を迎えるのは、パキの減薬・断薬に成功してからなのだろうか。尤も怒や哀はないに越したことはないのでそれも良し。そして「助けて!」「火事だ!」以外の大声は禁止とする。

BGM/アルバム「桜の森の満開の下」

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