天は二物を与えずと言われるが嘘である。私には好きな女の子がいる。断じて同性愛者ではない。好きと言うよりも憧れと表現する方が正しいか。言わずもがな、彼女はかわいい。身長は小柄な私よりも低く140cm台後半であり、ぽっちゃり迄は行かないが、柔らかそうな身体をしている。実際に触ってみると女性らしい柔らかさであった。彼女が酔って抱きついてきたときには押し倒してやろうかと思った程だ。私はオッサンである。彼女は巨乳である。オッサンなので私は巨乳も好きだ。当然顔もかわいい。彼女自身は一重なのを余り気に入ってはいないようだが、全体的にかわいらしい雰囲気の締めになっているようでその一重もチャームポイントだと思っている。頭も良い。偏差値としては私と同じ学校の出身なのであくまで並み程度ではあるが、回転が良いのだ。言いたいことはハッキリと言うタイプであり、現彼氏からは、何で怒っているかちゃんと伝えてくれるところが好きだ、と言われているらしい。自分の喜怒哀楽をきちんと言葉で表現できる女性は実は少ないので、それも長所である。喜怒哀楽の怒や哀を表現するのは難しいのだが、上手くできているようだ。そして声もかわいい。鈴を転がすような、と言うと流石に褒め過ぎだが、所謂女の子らしい声をしており且つ落ち着きも兼ね備えた声である。仕事も紆余曲折を経て今は学生時代から目標としていた仕事についている。とにかく素晴らしい。彼女は歳の離れた兄二人を持つ末っ子の一人娘として育てられた。親は過保護ではないらしく、むしろ放任に近い育て方をしたようで自立心も旺盛だ。他者に複雑な家庭環境と評される私の家庭とは対極にある。と思っていたが違ったらしいことが数ヶ月前に判明した。
私が我が家庭について愚痴を溢していたときに思いもよらぬ台詞が彼女から出てきた。私を産むときに親は迷って堕ろそうとしていたんだけれど、お祖母ちゃんに止められて産んだらしい、と。茶の間で親とテレビを観ていたときにいきなり何の前触れもなく言われて困惑したと言っていた。当然だろう。あんたなんか産まなきゃ良かった、という台詞を感情的になった親が発することはままあるらしい。しかし和やかな茶の間で唐突にこんな話を切り出されては対応に困るというものだ。ふーん、としか言えないだろう。彼女は祖母に特に可愛がられていたと言う。彼女自身も今は亡き祖母に懐いていた。親とも兄とも祖母とも良好な関係で育った彼女が昔から羨ましかったが、こんな裏話があったとは! この話をされてからも特に親と険悪な関係になってはいないようである。彼女がひとりの大人として成長した証だろう。
他者の家庭環境に興味を持つ者は多い。話の取っ掛かりとして兄弟姉妹の有無や親の性格を訊いてくる人もいる。訊かれたら答える。しかし私の場合に於いてはそこから話が進むことは殆どない。訊いてきた方から、ごめん、と言って話を遮るのだ。稀に突っ込んで訊いてこようとする者もいる。そういう者は大概好奇心という衝動を抑えきれない無神経な人間なので、こちらが一線を引く為に話は進まない。もっと稀にこちらが軽く一通り話した上で同情してくる者がいる。安易に同情をする人間を私は軽蔑している。同情という感情は、自らが相手よりも優位な立場にあることへの安堵に他ならないと私は確信している。同情とは得てして優越感と同義なのである。猫十字社の名作・小さなお茶会から学んだひとつである。文庫版にこの話は収録されていない。今は入手困難であるが、誰もに読む価値がある漫画だと思う。私はこの漫画から多くの物事を学び、また成長させてもらった。子供の頃は読解力が追いついていなかった故に登場猫物の可愛さにのみ惹かれて読んでおり、いつの間にか手放してしまった本であるが大人になってプレミア価格にもめげずに再入手して読み返し、様々なことが解った。墓場まで持って行きたい本のひとつである。
家庭環境の話に戻る。親の離婚・父の死去後の私はひたすら、普通の家庭、に憧れていた。自らの普通ではないと言われる環境を嫌ってやまなかった。内田春菊が壊れる前、岸田秀に傾倒していた頃に描いた名作のひとつに幻想の普通少女という漫画がある。普通とは一体何なのか? 今の私は一言で説明できる。普通とは幻想。普通などというものはこの世に存在していないのだ。冒頭に書いた憧れの友人。普通の家庭に育ったと私は誤解していた。その他の友人知人。皆、普通の家庭環境で育ったと思っていた。皆に詳細を訊いてはいないが、きっと裏がある筈だ。その裏を本人が裏と理解しているかどうかは別の話である。自らを、普通、と称する者は少なくない。家庭環境を、普通、と称する者も同様である。普通というのも便利な言葉のひとつである。しかしこの世に普通などひとつも存在してはいないのだ。あらゆることを普通と称する人間には二種類いると思われる。説明するのが億劫なので普通という便利な言葉でお茶を濁すのが一種類。もう一種類は本当に普通だと信じている人間。前者は処世術のひとつの手段として普通という言葉を操っている筈であり、後者は莫迦である。物事に正面から対峙することを避けているのだ。対峙を避ける人間が真理を見つけることはできないだろう。そして仮に真理に到達できたとして、それを真理と自覚はできまい。真理に到達しながらそれを自覚できないのは勿体無い話であり、私はそんな損をしたくはないのであらゆる物事に対峙し、様々なことを考えるのだ。
昨日の日記に書いた、私は多趣味ではない、というのは語弊があったのでここに訂正する。私の趣味は現在みっつある。みっつが多いかどうかは別として、私の趣味は読書・麻雀、そして物事を正面から考えて自分の言葉に置き換えることである。私の文章を読む上で、行間をも読む必要はない。私は言葉に辞書通りの解釈しか与えない。その辞書が新明解という点に問題がある気がしないでもないがそれはさておき。余談だが、まったりと過ごす、という表現が私は大嫌いである。まったりとは味覚表現のひとつであり、雰囲気表現の言葉ではない。学生時代にこのまったりについて当時の友人と大喧嘩をしたことがある。なので私をよく知る者は、私の前では雰囲気表現にまったりという言葉は用いない。私をよく知らない愛しの君はステージ上でまったりという言葉を雰囲気表現によく使う。過去、2度は聞いている。苛立つ。しかも愛しの君の書く詩のウリは言葉への拘りではなかったのか……? ついでに一昨日の日記にも訂正をしておく。色彩について述べておきながらオチを形状に持って行ってしまった。莫迦である。ティアードスカートやフリル、という部分は、パステルカラーや所謂シビラカラー、とすべきであった。衣類小物の形状についてはまた後日改めて書きたいと思う。
BGM/「鼓魂彩祭」
私が我が家庭について愚痴を溢していたときに思いもよらぬ台詞が彼女から出てきた。私を産むときに親は迷って堕ろそうとしていたんだけれど、お祖母ちゃんに止められて産んだらしい、と。茶の間で親とテレビを観ていたときにいきなり何の前触れもなく言われて困惑したと言っていた。当然だろう。あんたなんか産まなきゃ良かった、という台詞を感情的になった親が発することはままあるらしい。しかし和やかな茶の間で唐突にこんな話を切り出されては対応に困るというものだ。ふーん、としか言えないだろう。彼女は祖母に特に可愛がられていたと言う。彼女自身も今は亡き祖母に懐いていた。親とも兄とも祖母とも良好な関係で育った彼女が昔から羨ましかったが、こんな裏話があったとは! この話をされてからも特に親と険悪な関係になってはいないようである。彼女がひとりの大人として成長した証だろう。
他者の家庭環境に興味を持つ者は多い。話の取っ掛かりとして兄弟姉妹の有無や親の性格を訊いてくる人もいる。訊かれたら答える。しかし私の場合に於いてはそこから話が進むことは殆どない。訊いてきた方から、ごめん、と言って話を遮るのだ。稀に突っ込んで訊いてこようとする者もいる。そういう者は大概好奇心という衝動を抑えきれない無神経な人間なので、こちらが一線を引く為に話は進まない。もっと稀にこちらが軽く一通り話した上で同情してくる者がいる。安易に同情をする人間を私は軽蔑している。同情という感情は、自らが相手よりも優位な立場にあることへの安堵に他ならないと私は確信している。同情とは得てして優越感と同義なのである。猫十字社の名作・小さなお茶会から学んだひとつである。文庫版にこの話は収録されていない。今は入手困難であるが、誰もに読む価値がある漫画だと思う。私はこの漫画から多くの物事を学び、また成長させてもらった。子供の頃は読解力が追いついていなかった故に登場猫物の可愛さにのみ惹かれて読んでおり、いつの間にか手放してしまった本であるが大人になってプレミア価格にもめげずに再入手して読み返し、様々なことが解った。墓場まで持って行きたい本のひとつである。
家庭環境の話に戻る。親の離婚・父の死去後の私はひたすら、普通の家庭、に憧れていた。自らの普通ではないと言われる環境を嫌ってやまなかった。内田春菊が壊れる前、岸田秀に傾倒していた頃に描いた名作のひとつに幻想の普通少女という漫画がある。普通とは一体何なのか? 今の私は一言で説明できる。普通とは幻想。普通などというものはこの世に存在していないのだ。冒頭に書いた憧れの友人。普通の家庭に育ったと私は誤解していた。その他の友人知人。皆、普通の家庭環境で育ったと思っていた。皆に詳細を訊いてはいないが、きっと裏がある筈だ。その裏を本人が裏と理解しているかどうかは別の話である。自らを、普通、と称する者は少なくない。家庭環境を、普通、と称する者も同様である。普通というのも便利な言葉のひとつである。しかしこの世に普通などひとつも存在してはいないのだ。あらゆることを普通と称する人間には二種類いると思われる。説明するのが億劫なので普通という便利な言葉でお茶を濁すのが一種類。もう一種類は本当に普通だと信じている人間。前者は処世術のひとつの手段として普通という言葉を操っている筈であり、後者は莫迦である。物事に正面から対峙することを避けているのだ。対峙を避ける人間が真理を見つけることはできないだろう。そして仮に真理に到達できたとして、それを真理と自覚はできまい。真理に到達しながらそれを自覚できないのは勿体無い話であり、私はそんな損をしたくはないのであらゆる物事に対峙し、様々なことを考えるのだ。
昨日の日記に書いた、私は多趣味ではない、というのは語弊があったのでここに訂正する。私の趣味は現在みっつある。みっつが多いかどうかは別として、私の趣味は読書・麻雀、そして物事を正面から考えて自分の言葉に置き換えることである。私の文章を読む上で、行間をも読む必要はない。私は言葉に辞書通りの解釈しか与えない。その辞書が新明解という点に問題がある気がしないでもないがそれはさておき。余談だが、まったりと過ごす、という表現が私は大嫌いである。まったりとは味覚表現のひとつであり、雰囲気表現の言葉ではない。学生時代にこのまったりについて当時の友人と大喧嘩をしたことがある。なので私をよく知る者は、私の前では雰囲気表現にまったりという言葉は用いない。私をよく知らない愛しの君はステージ上でまったりという言葉を雰囲気表現によく使う。過去、2度は聞いている。苛立つ。しかも愛しの君の書く詩のウリは言葉への拘りではなかったのか……? ついでに一昨日の日記にも訂正をしておく。色彩について述べておきながらオチを形状に持って行ってしまった。莫迦である。ティアードスカートやフリル、という部分は、パステルカラーや所謂シビラカラー、とすべきであった。衣類小物の形状についてはまた後日改めて書きたいと思う。
BGM/「鼓魂彩祭」
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