拘りの集大成
2003年10月25日 メイク・ファッション・ピアス 金曜、天才ファミリーカンパニーのスペシャル版5巻を買うべく書店に出向いたのだが、なかった。ので、GREEN全4巻・噂真・美的・Springを購入。美的はVoceと共に紐で縛ってあり中を見ての判断は不可能。迷ったのだがVoceの付録にカネボウの文字が見えたので美的を買った。失敗した。私はカネボウの化粧品が余り好きではない。最大手ドメブラである資生堂の後追いばかりをしているような印象が根付いている。因ってどこのサンプルかは判らないが恐らくカネボウではなかろうと読んでの美的購入である。美的のサンプルは資生堂であった。が、資生堂は資生堂でもナプキンである。激しくいらん。本誌そのものは11月から始まるコフレ及び限定品特集があったので読み応えはまあまああったが、きっとVoceでも同じ特集は組まれていただろう。クリスマスコフレ及び限定品は、去年に比べればどこも無難な品揃えに思えた。しかし何かしら買ってしまうだろう。大高姐さんも薦めていたイヴ・サンローランのパレットが気になるがやや高い。同じく姐さんお薦めのスティラのハイライトを買うか。使わなさそうである。MACのパレットかイプサのマスカラキット、アユーラの聖彩コフレあたりを買ってしまいそうだ。またはスティラのリップグレイズセット。アナスイのリップ及びシャドウパレットもかわいい。けれど小さい。因みに一昨年のアナスイのリップパレット・シャドウパレットは購入したものの大半が残っている。最有力候補はイプサのタイムリセットのセットである。これは前回も購入し今も愛用している。リピートした訳ではない。単純に、まだ、残っているのだ。減りが遅いのはいいことだ。今度は美容液ではなくクリームのセットにするか……と思っているが、ひとつ難点がある。タイムリセットシリーズはとても優秀である。アクアは水分補給に素晴らしい力を見せてくれるし、美容液は保湿キープ力が強いのにこってりしすぎておらず、軽さが魅力だ。問題はクリームである。これも保湿力・ハリの取り戻しに力を発揮してくれる。ザーネと同程度に。ザーネはドラッグストアで500〜1000円で購入できる。タイムリセットは8000円くらいする。量もザーネの方が多い。ならばザーネで良いではないかと思うのが常人だろうが、容器が違うのだ。ザーネの容器はかわいくない。イプサの容器は機能的且つかわいい。化粧品、特に基礎物購入の理由なんてこんなもんなのだ。
Springを購入したのは表紙が深津絵里だったからだ。彼女もブルーベースの冬なので着こなしやメイクに於いてとても参考になる。今回は本誌の中で3種の黒いコートを着ていた。かわいい。今年30歳になったようだが、かわいい。私の愛用している黒コートはツモリの無難なステンカラーコートだが、今回深津が着ていたコートも欲しくなった。値段を見る。55万円……。私が持っている服の中で最も高価な服は親に貰った約8万円のインポート物コートである。ピンク地に大きなフェイクファーの白い襟が付いたとてもかわいいコートで、私の普段のファッション傾向に合わないためクローゼットで眠っている。私は高い服は購入しても貰っても、勿体無い気持ちが先に立って着られないのだ。清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したヴィヴィアンウエストウッドのカーディガンがある。ラグタグで2万円前後だったと記憶している。多分これが自腹で購入した中で一番高い服だ。勿体無いので滅多に着ない。人から貰った服で2万8千円のホコモモラのカーディガンがある。ホコモモラが今より高かった時代のものだ。勿体無くて着られない……。正に宝の持ち腐れ。本当に腐りそうなので今年こそはいろいろ着たいものである。が、きっとネットオークションで購入した100円の古着テイスト満載なニットや同じく500円で購入したスサデボンボンのダッフルコートが活躍しそうだ。安い物は何の気兼ねもなく着られて良い。この夏、最も活躍したのはフリーマーケットで400円で購入したオゾンロックスのTシャツだった。そんなものだ。
なので莫迦なうちのは、お前にはユニクロがお似合いだと言う。ユニクロの服は大変につまらない。無難でクセがないし、多色展開がウリではあるがその中に似合う色がどれだけあるというのか。何より多くの人が同じ物を購入し、着ているというのが嫌でたまらない。街中で同じ物を着た人間と擦れ違うときに気まずさを覚えるのは私だけであろうか? 以前、電車内で私がそのとき持っていたポーターの鞄と全く同じ物を持った人を見たことがある。どうにも嫌な気分になったので車両を移動した。その鞄はとても使い勝手のいい鞄なのだが、それ以来使用頻度が格段に落ちた。その鞄を持った人をライヴ会場でも見たことがある。そのときは私は違う鞄だったのでまあ良かったのだが、今後その鞄の使用頻度は更に落ちるであろう。定番物の怖さはここにある。流行に乗ると来年は着られない。だからといって定番物に頼ると街で同品を持った及び着た人との遭遇率が高上。この折り合いをつける物を探すと、流行には乗らず、適度にクセのある物に落ち着くのは自然なことだろう。それを我が道と呼ばれるのは、私にとって誇らしい。手本がないのでセンスを磨かねばならない。流行や定番への依存は楽であるが、そこには落ち着き、いや正直に書くならば、陥りたくない。
昨日、数年前に私が巨大掲示板某板に立てたスレッドを久々に読み返した。所有衣類等を減らしたいという趣旨のスレッドである。当時の私はうちのに怒られて、衣類等を減らさなければならなかったらしい。スレに書き込んでくれた人たちからは、流行を過ぎた物を処分しろという意見が多かった。けれど私は流行は追っていないので無理なのだ。先日、ネット上で或るコラムを読んだ。内容は定番物にこそ流行が反映されているというものだ。例えば黒のタートルニット。定番である。が、そのシルエットは毎年変わっている。一言で黒のタートルニットと言っても、ゆったりしたものが多く出回る時期もあれば身体のラインの出るものが出回る時期もある。定番という言葉に惑わされてはならないという話である。目から鱗が落ちたと思えた程に新鮮な意見に感じた。そして自分の衣類をチェックしたが定番の中の流行に沿った物は見当たらなかった。私が衣類を減らせる日はいつ来るのだろう。
ついでに衣類に関してひとつ悪癖が現れてきた。固執的完璧主義。同じ物をふたつ買うことはないのだが、似た物が欲しくなってきたのだ。例えばブラックジーンズ。1本しかなければそれがダメになったらどうしよう、と思うのだ。なので似た物をもう1本買う。私の所有衣類の中には微妙に違う物が多い。デニムのスカート然り、ピンクのスカート然り、シャツ・ブラウス・Tシャツ……。どれも他者から見れば、これがあればあれらは要らないだろう、と見えるに違いない。当人にとってはその、微妙な違いこそが大事なのである。だってここが違うんだもん! となる。他者がそこ迄見てはいないのは承知だ。小さなフリンジの有無や袖口の折り返しの有無などあってもなくても、ファッションに余程精通していない者から見ればトータルバランスに影響は及ぼさない。解っている。解ってはいるのだが、この小さな拘りの集大成が私の服装に大きく影響していることを主張したい。主張には実践を伴う必要もある。入浴及び着替えをしなければ。
Springを購入したのは表紙が深津絵里だったからだ。彼女もブルーベースの冬なので着こなしやメイクに於いてとても参考になる。今回は本誌の中で3種の黒いコートを着ていた。かわいい。今年30歳になったようだが、かわいい。私の愛用している黒コートはツモリの無難なステンカラーコートだが、今回深津が着ていたコートも欲しくなった。値段を見る。55万円……。私が持っている服の中で最も高価な服は親に貰った約8万円のインポート物コートである。ピンク地に大きなフェイクファーの白い襟が付いたとてもかわいいコートで、私の普段のファッション傾向に合わないためクローゼットで眠っている。私は高い服は購入しても貰っても、勿体無い気持ちが先に立って着られないのだ。清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したヴィヴィアンウエストウッドのカーディガンがある。ラグタグで2万円前後だったと記憶している。多分これが自腹で購入した中で一番高い服だ。勿体無いので滅多に着ない。人から貰った服で2万8千円のホコモモラのカーディガンがある。ホコモモラが今より高かった時代のものだ。勿体無くて着られない……。正に宝の持ち腐れ。本当に腐りそうなので今年こそはいろいろ着たいものである。が、きっとネットオークションで購入した100円の古着テイスト満載なニットや同じく500円で購入したスサデボンボンのダッフルコートが活躍しそうだ。安い物は何の気兼ねもなく着られて良い。この夏、最も活躍したのはフリーマーケットで400円で購入したオゾンロックスのTシャツだった。そんなものだ。
なので莫迦なうちのは、お前にはユニクロがお似合いだと言う。ユニクロの服は大変につまらない。無難でクセがないし、多色展開がウリではあるがその中に似合う色がどれだけあるというのか。何より多くの人が同じ物を購入し、着ているというのが嫌でたまらない。街中で同じ物を着た人間と擦れ違うときに気まずさを覚えるのは私だけであろうか? 以前、電車内で私がそのとき持っていたポーターの鞄と全く同じ物を持った人を見たことがある。どうにも嫌な気分になったので車両を移動した。その鞄はとても使い勝手のいい鞄なのだが、それ以来使用頻度が格段に落ちた。その鞄を持った人をライヴ会場でも見たことがある。そのときは私は違う鞄だったのでまあ良かったのだが、今後その鞄の使用頻度は更に落ちるであろう。定番物の怖さはここにある。流行に乗ると来年は着られない。だからといって定番物に頼ると街で同品を持った及び着た人との遭遇率が高上。この折り合いをつける物を探すと、流行には乗らず、適度にクセのある物に落ち着くのは自然なことだろう。それを我が道と呼ばれるのは、私にとって誇らしい。手本がないのでセンスを磨かねばならない。流行や定番への依存は楽であるが、そこには落ち着き、いや正直に書くならば、陥りたくない。
昨日、数年前に私が巨大掲示板某板に立てたスレッドを久々に読み返した。所有衣類等を減らしたいという趣旨のスレッドである。当時の私はうちのに怒られて、衣類等を減らさなければならなかったらしい。スレに書き込んでくれた人たちからは、流行を過ぎた物を処分しろという意見が多かった。けれど私は流行は追っていないので無理なのだ。先日、ネット上で或るコラムを読んだ。内容は定番物にこそ流行が反映されているというものだ。例えば黒のタートルニット。定番である。が、そのシルエットは毎年変わっている。一言で黒のタートルニットと言っても、ゆったりしたものが多く出回る時期もあれば身体のラインの出るものが出回る時期もある。定番という言葉に惑わされてはならないという話である。目から鱗が落ちたと思えた程に新鮮な意見に感じた。そして自分の衣類をチェックしたが定番の中の流行に沿った物は見当たらなかった。私が衣類を減らせる日はいつ来るのだろう。
ついでに衣類に関してひとつ悪癖が現れてきた。固執的完璧主義。同じ物をふたつ買うことはないのだが、似た物が欲しくなってきたのだ。例えばブラックジーンズ。1本しかなければそれがダメになったらどうしよう、と思うのだ。なので似た物をもう1本買う。私の所有衣類の中には微妙に違う物が多い。デニムのスカート然り、ピンクのスカート然り、シャツ・ブラウス・Tシャツ……。どれも他者から見れば、これがあればあれらは要らないだろう、と見えるに違いない。当人にとってはその、微妙な違いこそが大事なのである。だってここが違うんだもん! となる。他者がそこ迄見てはいないのは承知だ。小さなフリンジの有無や袖口の折り返しの有無などあってもなくても、ファッションに余程精通していない者から見ればトータルバランスに影響は及ぼさない。解っている。解ってはいるのだが、この小さな拘りの集大成が私の服装に大きく影響していることを主張したい。主張には実践を伴う必要もある。入浴及び着替えをしなければ。
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