昨夜、友人からクレームが来た。先日書いた、世界観がダメらしい、というのは間違いだそうである。声がひっくり返るボーカルがダメだという。それは味だと説明したが、まあとにかく彼女にとって世界観はOKであるが声がNGということでどっちに転んでもダメには変わりない。
昨夜から今朝にかけて、この友人のクレームに始まり私は3件のクレームを受けた。上記がひとつ。後のふたつはネットオークション絡みである。まずは箱への宛名の貼り間違いによる発送先取り違えのミスが発覚。先に届いた人の方からメールが来た。着払いで返送するので再度送ってくれという。当然である。問題は取り違えられたもうひとりがきちんと返してくれるか、またそれ以前にそちらが郵便事故に巻き込まれていないかだ。届いたら返送してくれる旨のメールを出したがまだ返信は来ない。不安である。それから私の出品物を落札してくれた方に商品についた煙草の匂いがきつかったというのがひとつ。前以って喫煙者だとは書いているのでそれを承知での落札ではあったろうが、承知の上でも苦言を呈したい程であったようだ。私はチェーンスモーカである。
映画館が苦手である。煙草が吸えないからだ。喫煙しながら鑑賞できる映画館があれば足繁く通うかもしれないが、ない。数年前迄、新宿昭和館という二番館があった。任侠物などの二番館落ちを3本立てで組む映画館だった。何度か観に行ったことがある。最初は衝撃を受けた。スクリーンが綺麗に見えないのだ。古い映画館だからというのも一因ではあるが、もっと大きな原因があった。前方で喫煙しつつ鑑賞している客が何人もいたのである。どの映画館にもあるように壁に禁煙とプレートは貼られていた。そのプレートは普通は綺麗であるが、昭和館に於いては脂に塗れた物だった。前方の喫煙者に注意をするものはひとりもいなかった。観客も映画館職員も。今なら流石は任侠映画館!では私も一服しつつ……となるかもしれないが、若かった当時は消防法とか大丈夫なの? と余計なことを考えつつ映画を見ていた。実に野暮である。昭和館では暗黙の了解で喫煙が認められていたようだ。そこに消防法だのなんだのと、心の中の話であっても持ち出すのは野暮であったと今は思える。表千家には表千家、裏千家には裏千家の流儀があるように、昭和館ではそれが流儀だったのだ。昭和館が繁栄していた時代、良い時代だった。
学生運動に全共闘。私はこれらを知識としてしか知らない。その時代に生まれたかったと思う。誰もが自分のこと・他人のこと・国のことに懸命であり、自らがメッセージを発することに全力を使い、他者のメッセージを全身で受け止めていた。今の日本でメッセージの送受に総身総意の姿勢で取り組む者はどれくらいいるのだろう。1%もいないと私は見ている。あの時代の歌が好きである。高田渡に岡林信康。彼らはメッセージを全身から発し、聴く者も全身で受け止めた。メッセージの送受に音楽という手段が使われていたのだ。彼らの歌は当時の匂いを発している。私はその当時を知識としてしか知らないのに、それでも唄う高田や岡林らだけではなく、それらをリアルタイムで聴いていた者らの力迄感じる。彼らの歌は消費されていない。しかし彼らは既に表舞台にはいない。
同時代、井上陽水はメッセージ性があるのかないのか判らないような歌を発信していた。アンドレ・カンドレ時代のビューティフル・ワンダフル・バードには風刺を感じるし、陽水となってからの人生が二度あればはストレートに心に突き刺さる。日本初のミリオンセラーは彼の氷の世界という歌だ。彼の声は独特であり肌に纏わり、耳から入って脳味噌の皺の隙間に留まる。曲調はキャッチーで歌詞は謎である。基本は色恋の歌だ。高田や岡林が世相を反映した歌を歌っていた頃、陽水は世相に囚われず色恋を歌い続けた。これが陽水が今でも受け入れられ続けている理由だとどこかで読んだことがある。確かに色恋は普遍的なものかもしれない。だが私はこれまでに心に突き刺さる色恋の歌を聴いたことはない。纏わりついてはきても、突き刺さってはこないのだ。私の感受性が鈍いのであろうか。
ヒットチャートというものがある。上位を占めているのは色恋の歌、明日へ未来への希望の歌ばかりだ。げんなりする。それらの歌の大半に独自性を見出せない。その者がその楽曲を歌う必然性が判らない。キャッチーな曲に耳に心地良い言葉を副詞で繋いだ歌詞を乗せ、取って付けたような一節を挟みそこに英語を加える。これらの殆どはスポイルされる消費型音楽だと思う。ヒットチャートに一度乗せ、落ちてきた頃に似たパターンの楽曲をまたチャートに乗せる。音楽は完全に使い捨て商品へと変化してしまったのだろうか。否、チャートの上位で需要と供給のバランスの根源のレベルが低下しているだけだと思いたい。需要者も供給者も誠心誠意、全身全霊で音楽と取り組んでいないのだと思う。しかしそれを悪いとは言わない。ヒットチャート上位の音楽は既に芸術枠で括られる音楽ではなく、職人の世界になっているのだろう。
ライターという職業がある。ライターは大きくふたつに分けられる。記名ライターと無記名ライターだ。文責の所在をどこに置くかが大きく変化する。無記名ライターに求められるのは常に65点の原稿である。100点は求められない反面、60点を取ることは許されない。そして締切厳守。自分のカラーを出す必要はなく、むしろ出さないほうが良い。万人に読み易い65点をキープできる文章力とスピードが求められるのが無記名ライターなのだ。記名ライターや作家と大きく違う部分である。記名ライターや作家は65点をキープしなくても良い。常に高い点数を保てるのは理想であるが、極論を承知で述べる。10点の原稿を99本出しても、残りの1本で100点が取れれば認められるのだ。しかしその1本がベストセラーになることは本当に稀なことではある。
ヒットチャート上位の音楽と無記名ライターの仕事は限りなく近いのではないだろうか。上位にはいつも似た名前、似たタイトルが上っている。没個性が求められるのが職人の世界であり、芸術となり得る個性を出せる者でもそれが100回に1回なら名前が知られていない分、ヒットチャートには上れなくなる。今現在裕福に暮らしているのは職人であろう。けれど職人の仕事が後世に残るであろうか? 陽水は天性の声と勘に恵まれており、また継続が力となったパターンであるが、そこまでの才と持続力を持ち得るヒットチャート常連はどれ程いるであろう。一握りもいないに違いない。一過性の、消費される物の生産に空しさを覚えないのだろうかと思うことがある。きっと消費される物を造っている自覚はなくオリジナリティとメッセージ性に溢れていると勘違いしているものが半分、空しさを訴えても周囲スタッフに丸め込まれるのが半分か。前者にはさっさとスポイルされて欲しい。後者には頑張って欲しい。周囲との戦いで得たことを次の仕事・作品に活かせる筈だ。それを待っている者も少ないが、存在している。含まれたメッセージに圧倒されたい。スポイルされる物に価値はない。衝動を感じさせない物は後世には残らない。様々な衝動を全身で受け止められるだけの体力は常に、私は残している。
BGM/「夜叉ヶ池」「猟奇が街にやってくる」「心の火事」など
昨夜から今朝にかけて、この友人のクレームに始まり私は3件のクレームを受けた。上記がひとつ。後のふたつはネットオークション絡みである。まずは箱への宛名の貼り間違いによる発送先取り違えのミスが発覚。先に届いた人の方からメールが来た。着払いで返送するので再度送ってくれという。当然である。問題は取り違えられたもうひとりがきちんと返してくれるか、またそれ以前にそちらが郵便事故に巻き込まれていないかだ。届いたら返送してくれる旨のメールを出したがまだ返信は来ない。不安である。それから私の出品物を落札してくれた方に商品についた煙草の匂いがきつかったというのがひとつ。前以って喫煙者だとは書いているのでそれを承知での落札ではあったろうが、承知の上でも苦言を呈したい程であったようだ。私はチェーンスモーカである。
映画館が苦手である。煙草が吸えないからだ。喫煙しながら鑑賞できる映画館があれば足繁く通うかもしれないが、ない。数年前迄、新宿昭和館という二番館があった。任侠物などの二番館落ちを3本立てで組む映画館だった。何度か観に行ったことがある。最初は衝撃を受けた。スクリーンが綺麗に見えないのだ。古い映画館だからというのも一因ではあるが、もっと大きな原因があった。前方で喫煙しつつ鑑賞している客が何人もいたのである。どの映画館にもあるように壁に禁煙とプレートは貼られていた。そのプレートは普通は綺麗であるが、昭和館に於いては脂に塗れた物だった。前方の喫煙者に注意をするものはひとりもいなかった。観客も映画館職員も。今なら流石は任侠映画館!では私も一服しつつ……となるかもしれないが、若かった当時は消防法とか大丈夫なの? と余計なことを考えつつ映画を見ていた。実に野暮である。昭和館では暗黙の了解で喫煙が認められていたようだ。そこに消防法だのなんだのと、心の中の話であっても持ち出すのは野暮であったと今は思える。表千家には表千家、裏千家には裏千家の流儀があるように、昭和館ではそれが流儀だったのだ。昭和館が繁栄していた時代、良い時代だった。
学生運動に全共闘。私はこれらを知識としてしか知らない。その時代に生まれたかったと思う。誰もが自分のこと・他人のこと・国のことに懸命であり、自らがメッセージを発することに全力を使い、他者のメッセージを全身で受け止めていた。今の日本でメッセージの送受に総身総意の姿勢で取り組む者はどれくらいいるのだろう。1%もいないと私は見ている。あの時代の歌が好きである。高田渡に岡林信康。彼らはメッセージを全身から発し、聴く者も全身で受け止めた。メッセージの送受に音楽という手段が使われていたのだ。彼らの歌は当時の匂いを発している。私はその当時を知識としてしか知らないのに、それでも唄う高田や岡林らだけではなく、それらをリアルタイムで聴いていた者らの力迄感じる。彼らの歌は消費されていない。しかし彼らは既に表舞台にはいない。
同時代、井上陽水はメッセージ性があるのかないのか判らないような歌を発信していた。アンドレ・カンドレ時代のビューティフル・ワンダフル・バードには風刺を感じるし、陽水となってからの人生が二度あればはストレートに心に突き刺さる。日本初のミリオンセラーは彼の氷の世界という歌だ。彼の声は独特であり肌に纏わり、耳から入って脳味噌の皺の隙間に留まる。曲調はキャッチーで歌詞は謎である。基本は色恋の歌だ。高田や岡林が世相を反映した歌を歌っていた頃、陽水は世相に囚われず色恋を歌い続けた。これが陽水が今でも受け入れられ続けている理由だとどこかで読んだことがある。確かに色恋は普遍的なものかもしれない。だが私はこれまでに心に突き刺さる色恋の歌を聴いたことはない。纏わりついてはきても、突き刺さってはこないのだ。私の感受性が鈍いのであろうか。
ヒットチャートというものがある。上位を占めているのは色恋の歌、明日へ未来への希望の歌ばかりだ。げんなりする。それらの歌の大半に独自性を見出せない。その者がその楽曲を歌う必然性が判らない。キャッチーな曲に耳に心地良い言葉を副詞で繋いだ歌詞を乗せ、取って付けたような一節を挟みそこに英語を加える。これらの殆どはスポイルされる消費型音楽だと思う。ヒットチャートに一度乗せ、落ちてきた頃に似たパターンの楽曲をまたチャートに乗せる。音楽は完全に使い捨て商品へと変化してしまったのだろうか。否、チャートの上位で需要と供給のバランスの根源のレベルが低下しているだけだと思いたい。需要者も供給者も誠心誠意、全身全霊で音楽と取り組んでいないのだと思う。しかしそれを悪いとは言わない。ヒットチャート上位の音楽は既に芸術枠で括られる音楽ではなく、職人の世界になっているのだろう。
ライターという職業がある。ライターは大きくふたつに分けられる。記名ライターと無記名ライターだ。文責の所在をどこに置くかが大きく変化する。無記名ライターに求められるのは常に65点の原稿である。100点は求められない反面、60点を取ることは許されない。そして締切厳守。自分のカラーを出す必要はなく、むしろ出さないほうが良い。万人に読み易い65点をキープできる文章力とスピードが求められるのが無記名ライターなのだ。記名ライターや作家と大きく違う部分である。記名ライターや作家は65点をキープしなくても良い。常に高い点数を保てるのは理想であるが、極論を承知で述べる。10点の原稿を99本出しても、残りの1本で100点が取れれば認められるのだ。しかしその1本がベストセラーになることは本当に稀なことではある。
ヒットチャート上位の音楽と無記名ライターの仕事は限りなく近いのではないだろうか。上位にはいつも似た名前、似たタイトルが上っている。没個性が求められるのが職人の世界であり、芸術となり得る個性を出せる者でもそれが100回に1回なら名前が知られていない分、ヒットチャートには上れなくなる。今現在裕福に暮らしているのは職人であろう。けれど職人の仕事が後世に残るであろうか? 陽水は天性の声と勘に恵まれており、また継続が力となったパターンであるが、そこまでの才と持続力を持ち得るヒットチャート常連はどれ程いるであろう。一握りもいないに違いない。一過性の、消費される物の生産に空しさを覚えないのだろうかと思うことがある。きっと消費される物を造っている自覚はなくオリジナリティとメッセージ性に溢れていると勘違いしているものが半分、空しさを訴えても周囲スタッフに丸め込まれるのが半分か。前者にはさっさとスポイルされて欲しい。後者には頑張って欲しい。周囲との戦いで得たことを次の仕事・作品に活かせる筈だ。それを待っている者も少ないが、存在している。含まれたメッセージに圧倒されたい。スポイルされる物に価値はない。衝動を感じさせない物は後世には残らない。様々な衝動を全身で受け止められるだけの体力は常に、私は残している。
BGM/「夜叉ヶ池」「猟奇が街にやってくる」「心の火事」など
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