20代後半から30代前半、企業に属する者はひとつの転機を迎えることが多いようだ。責任の伴う立場に立たされるようになるらしい。最近、私の身近な人間でふたり、責任ある立場に立つか否かで悩んでいた及び悩んでいる者がいる。ふたりの共通項は、責任の伴う立場には立ちたくない、と主張していることだ。理解はできる、納得はできない。ふたりともそれだけの力があると見込まれて打診を受けた筈なのだ。私は彼らの仕事振りを現場では見ていないので想像でしかないが、素の彼らを見て確かにそれだけの力を持っていると思う。何故自分の力を出し切ろうと思わないのか、何故自分の裁量の幅を広げたいと思わないのか、何故責任という言葉の前で逃げ腰になったり二の足を踏むのか。実に勿体無い話である。彼らにとっても、企業にとっても、彼らの部下になる筈だった人間たちにとっても。裁量の幅は広ければ広い程いいに決まっている。給料も上がれば上がる程いいに決まっている。これらの利益を捨てて迄、彼らは責任を負いたくはないと言う。現代っ子だ、と思った。

 野心。野望。競争心。向上心。戦後、これらの心持は世代が重なるにつれ薄れていっていると言われている。個人差はあるが、全体として見れば確かにそうだろう。私の含まれる世代は相当に薄まっている。その中でこれらのモチベーションの高い人間はやはり少ないらしい。彼らに言われた。私は心持を失ってはいない。いつかビッグになってやる、と言って本当にビッグになったのは矢沢永吉である。彼の著書・成り上がりはセールスも良くドラマ化もされた。それに引き換えジョニーは……余談だが、私はつい最近、某ライヴに行く迄、何故かジョニー大倉はキャロル解散後、石倉三郎と名を変えて俳優になっていると思っていた。私の中で男の中の男と言えば、加山雄三でもなければアントニオ猪木でもなく長淵剛でもない。硝子のコップを肴に日本酒を呑む男・石倉三郎なのだ。いや、矢沢もジョニーも石倉もどうでもいい。野心の話である。力があるのに野心を失って小さく纏まっている人間を見ると非常にもどかしさを覚える。事なかれ主義は嫌いだ。

 この日記をつけ始めてから、以前書いた0か100かの思考を治す為の行動療法に見切りをつけた方がいいように感じ始めている。自分の思いや考えをこの場で言語化していること及び身近な人間のいろいろな話に因っている。0か100か思考を治し、広く浅くの人間関係を身につけるということがどんな弊害を含んでいるのかを考えた。広く浅くということは、世に憚る莫迦をも受け入れるということに等しいのだ。そんな人間関係が果たして自分に必要だろうか。即断できた。社会で歓迎される円滑な人間関係は広く浅くである。社会とは多くの莫迦とほんの少数の利口で成り立っている。広く浅くは莫迦に喜ばれる人間関係に他ならない。大体利口な人間と知り合ったとき、浅くの関係で済ませたいと思うか。否。では広く深くの人間関係を築くことはできるか。否。余程の幸運に恵まれた者でない限り周囲に莫迦は蔓延っている。莫迦を避けて生きたいという気持ちを捨てられなければ狭く深くを通すしかないのだ。器用な利口なら莫迦を上手くあしらいつつ、広く浅くと深く狭くを使い分けることができるのだろう。私は不器用な人間なので、できない。莫迦に迎合したくはない。愛しの君の歌詞で、他人を羨み自分を蔑み未来を忘れて何処へ行こうか、という一節がある。この冒頭を、他人を蔑み、と間違えそうになることが多々あるらしい。熱く大きな自己愛を自己否定の風呂敷で包んでいるような愛しの君のことだ。きっと間違って口にしかける歌詞の方が本音に近いのだろう。こういったタイプの人間は、多くの人間と接しなければならない場所に属することがとても難儀である。

 莫迦はミスをしたり過ちを犯したりするものだ。責任を回避し続けていれば莫迦の尻拭いはしなくて済むだろう。処世術と自己防衛の果ては責任回避の事なかれ主義に行き着くのか。行き着いてそれで納得して留まるのか。留まったらそこから先に道は作れるのか。

 留まることを否定はしない。時には留まらなければならないこともあるだろう。今の私は留まらなければならない時期である。しかし留まり続ける気は更々ない。少し前はもう一生このままでいいと思っていた。自覚しないうちにどこかで転機を迎えたらしい。絶対に先に進む。社会に出て仕事をするうちに私はふたつの夢を持った。ひとつは数年前に既に叶っている。もうひとつは未だ叶っていない。叶える。どれくらい時間を要するかは不明である。目処は皆無。それでも叶えると思い続け、小さな歩幅ででも進んでいくしかないではないか。私は企業に属せない。そして私の原稿は20点か100点かのどちらかだ。ここでつけている日記は20点である。20点でも書かなければならない。100点の原稿が書ける心身の状態を迎えたそのとき、技術が追いつかないのでは話にならないのだ。継続は力なり、という言葉を昔は信じていなかった。出戻って、離れていた時期の愛しの君らの活動を追い、継続は力であることを知ることができた。有難う。感謝の気持ちを惜しまない。

 人々に消費されたくない。様々な柵に囚われたくない。納得できる形で残る物を作りたい。その為に生じる軋轢ならば甘んじて受け止めようではないか。単純な開き直りではない。思考回路を修正して世に迎合しようと努力し、その後に得た結論なのだ。昔はこういった努力なく自らの思考に絡め取られていた。やっと自分がモラトリアム期の最中にあることを自覚できるようになった。ここからである。今の私が立つ場所は最底辺。ならば後は這い上がるのみである。這い上がるに必要な基礎体力作りの場がここである。ネットに馴染み過ぎた文体を活字用文体に直し、顔文字などは全て排除。私の文章の弱点は構成力にある。身につけよう。数年前、私は自分の原稿に絶対的な自信を持っていた。羞恥心を煽られる若気の至りの極み。それでも最低ラインは優にクリアしている。世には、てにをは、すらもまともに扱えない物書きが溢れている。根拠なき自信を持っていた頃の原稿を読み返し、至らなさは感じた。けれど文章に力があった。その頃の力を取り戻したい。

 知人に絵のモデルを頼まれたことがある。因みに着衣である。その知人に何故私にそれを依頼するのか訊いた。「目に力があるから」との答えを頂戴した。根拠なき自信に支えられていた頃の話だ。恥ずかしい自信が目にをも力を与えていたのだろう。この歳になり、もう根拠なき自信は通用しない。確固とした自信を身に付けなければならない歳になっている。今度私の目に力が宿るときは、確固とした自信に支えられた光を宿していると信じたい。信じつつ、次の一歩を踏み出す先を、踏み出す時期を逃さぬように慎重に足元と前方を見据えるのだ。

BGM/「相剋の家」「ダイスを転がせ」「流星ビバップ」など

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