今頃私は都内某ライヴハウス前で開場待ちをしている予定だった。が、今こうして家で日記をつけている。体調が芳しくない。起きてからずっと予期不安に襲われている。無理に出かけたら道中またはライヴの最中に発作が起きる確率がかなり高い。なので念の為、こうして家で安静にしている。予約してあるのでライヴハウスには申し訳ないが致し方ない。シャンシャンを経験してみたいという好奇心の為にパキを数日抜いたのが裏目に出た。何も今日その裏目が出なくても昨日や明日でもいいではないか。実に勝手な言い草である。今頃、愛しの君は都内某ライヴハウス内かその近辺にいるのだろう。観たかった。聴きたかった。今日の不調はこれだけではない。私の体調不良は精神的なものに大きく左右される。先日、外馬に乗り損ねた者に恨まれたと書いた。その者らがどこの誰か私は知らない。しかしながらライヴハウスで遭遇する可能性は多々ある。避けたい。ずっと避け続けるのは困難であるが、とにかく今日は嫌である。いろんな人に疑いの目を向けてしまいそうだ。私が狭量なのだろうか。狭量ではないと思いたい。ないに違いない。誰だってあんな目に遭えば凹む筈だ。友人を得たのは嬉しく、またそれで苛々鬱々もかなり晴れたが、かなりの範疇であり完璧に晴れた訳ではない。精神的に億弱な私にはやはりかなり応える悪意であった。
そのせいかパキ断薬を試みていたせいか、はたまた効果を実感できないレスタスの服薬をさぼっているせいか、今日の私に現実感はない。元々現実感の薄い人間である。離人症も疑ったが違うようだ。上手く言い表せないのがむず痒いのだが、端的に言うと私には夢と現の区別が付いていない。主治医にもこの話はしてある。主治医曰く、そう思っている自分が現実。しかし夢の中でも同様のことを考えている自分がいる。ではそれも現実ということになり、私の中に夢という観念はなくなり全てが現実となってしまう。こう言うと主治医はやや困っていた。主治医にとって私は扱いにくい患者であろう。勝手に薬の知識を得てくるし、勝手に服薬調整するし、訳の解らないことを言うし。まあそういう人間を相手にするのが主治医の仕事だ。主治医の話もよく解らない部分がある。お互い様だ。
夢と現の話である。思う故に在り。コギトなんちゃらかんちゃらの訳だ。これは正確な訳であり一般的には、我思う故に我在り、と訳されている。本当は主語はない。この思想は、上記主治医の発言と同じである。そう思っている自分が現実、と。思う故に在りという言葉は有名である。しかしこの思想よりももっともっと前に中国の思想家が唱えた思想がある。胡蝶の夢、という思想。これは今こうしている自分が現実のように思うのが人であるが、そうでない可能性もあるのではないか。こうしている自分は胡蝶の夢の中の存在であり、夢に登場する胡蝶こそが本来の我ではないかという思想だ。私は思う故に在りには同意できない。反して胡蝶の夢にこそリアルを感じる。眠りに付く際、毎日のように考えることがある。私は今から夢の世界に行くのだろうか? それとも現実に帰るのだろうか? 答えは出ない。いや、出ているのかもしれないが、その答えに同意もできなければ実感も伴わないのだ。
夢と現の区別について、誰しも子供の頃に混乱したことはあるという。朝起きて、みんなが消えていたらどうしよう……。子供の頃に一度は思ったろう。大多数の人間は大人になるに従い、このようなことは考えなくなるらしい。現実に追われて考える余裕がなくなるからだそうだ。そして自分を追っている諸々のある場所こそが現実であると認識できるようになるらしい。私は大人であるが認識できていない。昼夜を問わず夢と現について考えている。某巨大掲示板某板にてこのような感覚を持った人間がスレッドを立てた。数人の同士が現れた。私もそのひとりである。同士とはいえ、各々の夢と現の曖昧さは微妙に違っていることがそのスレの成長と共に判明してきた。スレ住人は少ない。ここ数日はやや多忙だったこともありそのスレは見ていないのだが、もしかしたらもうdat逝きになっているかもしれない。それ程に住人の少ないスレである。住人が少ないということは、この手の感覚を持っている人間が少ないということに等しい。皆、夢と現の区別が付いているようだ。
私はそのスレでひとつの仮定を提示した。喫煙者は口唇期を抜けきっていないという説がある。口唇期とは肛門期などと同様に子供の成長過程に於いて訪れる通過儀礼のようなものだ。夢と現の混乱は子供の頃は皆が持つらしいのに、成長と共に区別が付くようになる。ということは、この感覚を大人になっても引きずっている者は、何らかの成長に於ける通過儀礼を飛ばしてしまったのではなかろうか? 立証したいと思うが追求していくのが怖い気もしており、簡単な文献を購入したものの未だ読んではいない。仮に立証できてしまったら私の諸事情がまた拗れる可能性を秘めている。卵と鶏、どちらが先か。立証できた暁には諸事情が少し解れる可能性もある。ふたつの可能性を天秤にかけ、億弱な私は今現在前者の可能性を強く感じているため、敢えて勉強を怠らしている。
以下は以前うちのに送ったメールである。
通勤通学に足を動かす常人たちの中
同じ方向に歩きつつ違う方向に足を進める自分
生きるために食事をとる常人
生かされるために食餌を摂る自分
明日の為に睡眠をとる常人
明日がないから睡眠をとれない自分
夢と現の区別がつく常人
夢が現で現が夢の自分
孤独 閉塞 不足 快感 不快感
人という字は人という字であり人でしかない
記号 それは記号 それは意味を失った記号
昨日今日明日 前後左右不覚
歪んだ平衡感覚 失った時の概念
喜怒哀楽 無無無無
表現は虚言で嘘は得
気になる 気にならない 気にならない 気にならない
思う故在り 胡蝶の夢こそ真実を語り
時を失い羽ばたく胡蝶
胡蝶が自分 胡蝶は自分
今いる自分はまやかしであり蜃気楼であり
全ての概念を無くしたときこそ思え在り得る
概念たる概念とは……そもさん!
-------------------------------------------
説破してください。
メールの件名は無題。説破はされていない。できないようだ。私の卒論は或る小説を元にした記号論であった。今でも記号という物についてよく考える。全ては記号である。あなたは誰ですか? この質問に正確に答えられる人間に出会ったことはない。私も答えられない。きっと利口は思う故に在りに基づいた回答をしてくるだろう。しかし思う故に在りという思想に否定的な私にはその回答に満足はできない。そして胡蝶の夢に囚われている自分はこの質問を前には口を閉ざすしかない。あなたは誰ですか? の質問に対して名前を始めとし、自らの育ちや境遇、職業などに基づいて回答してくる人間は莫迦の極みである。名前や職業は言うまでもなく、育ちや境遇すらも言葉に変換された時点で全て記号と化す。言葉という記号は便利な物であるが、言葉にした時点で記号と化す為に回答から遠ざかってしまう。死ぬ前には正確な解答を出したい。その反面、名前その他で回答しきれた気になれる莫迦に羨望してならない。どちらが幸せなのだろう。
そのせいかパキ断薬を試みていたせいか、はたまた効果を実感できないレスタスの服薬をさぼっているせいか、今日の私に現実感はない。元々現実感の薄い人間である。離人症も疑ったが違うようだ。上手く言い表せないのがむず痒いのだが、端的に言うと私には夢と現の区別が付いていない。主治医にもこの話はしてある。主治医曰く、そう思っている自分が現実。しかし夢の中でも同様のことを考えている自分がいる。ではそれも現実ということになり、私の中に夢という観念はなくなり全てが現実となってしまう。こう言うと主治医はやや困っていた。主治医にとって私は扱いにくい患者であろう。勝手に薬の知識を得てくるし、勝手に服薬調整するし、訳の解らないことを言うし。まあそういう人間を相手にするのが主治医の仕事だ。主治医の話もよく解らない部分がある。お互い様だ。
夢と現の話である。思う故に在り。コギトなんちゃらかんちゃらの訳だ。これは正確な訳であり一般的には、我思う故に我在り、と訳されている。本当は主語はない。この思想は、上記主治医の発言と同じである。そう思っている自分が現実、と。思う故に在りという言葉は有名である。しかしこの思想よりももっともっと前に中国の思想家が唱えた思想がある。胡蝶の夢、という思想。これは今こうしている自分が現実のように思うのが人であるが、そうでない可能性もあるのではないか。こうしている自分は胡蝶の夢の中の存在であり、夢に登場する胡蝶こそが本来の我ではないかという思想だ。私は思う故に在りには同意できない。反して胡蝶の夢にこそリアルを感じる。眠りに付く際、毎日のように考えることがある。私は今から夢の世界に行くのだろうか? それとも現実に帰るのだろうか? 答えは出ない。いや、出ているのかもしれないが、その答えに同意もできなければ実感も伴わないのだ。
夢と現の区別について、誰しも子供の頃に混乱したことはあるという。朝起きて、みんなが消えていたらどうしよう……。子供の頃に一度は思ったろう。大多数の人間は大人になるに従い、このようなことは考えなくなるらしい。現実に追われて考える余裕がなくなるからだそうだ。そして自分を追っている諸々のある場所こそが現実であると認識できるようになるらしい。私は大人であるが認識できていない。昼夜を問わず夢と現について考えている。某巨大掲示板某板にてこのような感覚を持った人間がスレッドを立てた。数人の同士が現れた。私もそのひとりである。同士とはいえ、各々の夢と現の曖昧さは微妙に違っていることがそのスレの成長と共に判明してきた。スレ住人は少ない。ここ数日はやや多忙だったこともありそのスレは見ていないのだが、もしかしたらもうdat逝きになっているかもしれない。それ程に住人の少ないスレである。住人が少ないということは、この手の感覚を持っている人間が少ないということに等しい。皆、夢と現の区別が付いているようだ。
私はそのスレでひとつの仮定を提示した。喫煙者は口唇期を抜けきっていないという説がある。口唇期とは肛門期などと同様に子供の成長過程に於いて訪れる通過儀礼のようなものだ。夢と現の混乱は子供の頃は皆が持つらしいのに、成長と共に区別が付くようになる。ということは、この感覚を大人になっても引きずっている者は、何らかの成長に於ける通過儀礼を飛ばしてしまったのではなかろうか? 立証したいと思うが追求していくのが怖い気もしており、簡単な文献を購入したものの未だ読んではいない。仮に立証できてしまったら私の諸事情がまた拗れる可能性を秘めている。卵と鶏、どちらが先か。立証できた暁には諸事情が少し解れる可能性もある。ふたつの可能性を天秤にかけ、億弱な私は今現在前者の可能性を強く感じているため、敢えて勉強を怠らしている。
以下は以前うちのに送ったメールである。
通勤通学に足を動かす常人たちの中
同じ方向に歩きつつ違う方向に足を進める自分
生きるために食事をとる常人
生かされるために食餌を摂る自分
明日の為に睡眠をとる常人
明日がないから睡眠をとれない自分
夢と現の区別がつく常人
夢が現で現が夢の自分
孤独 閉塞 不足 快感 不快感
人という字は人という字であり人でしかない
記号 それは記号 それは意味を失った記号
昨日今日明日 前後左右不覚
歪んだ平衡感覚 失った時の概念
喜怒哀楽 無無無無
表現は虚言で嘘は得
気になる 気にならない 気にならない 気にならない
思う故在り 胡蝶の夢こそ真実を語り
時を失い羽ばたく胡蝶
胡蝶が自分 胡蝶は自分
今いる自分はまやかしであり蜃気楼であり
全ての概念を無くしたときこそ思え在り得る
概念たる概念とは……そもさん!
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説破してください。
メールの件名は無題。説破はされていない。できないようだ。私の卒論は或る小説を元にした記号論であった。今でも記号という物についてよく考える。全ては記号である。あなたは誰ですか? この質問に正確に答えられる人間に出会ったことはない。私も答えられない。きっと利口は思う故に在りに基づいた回答をしてくるだろう。しかし思う故に在りという思想に否定的な私にはその回答に満足はできない。そして胡蝶の夢に囚われている自分はこの質問を前には口を閉ざすしかない。あなたは誰ですか? の質問に対して名前を始めとし、自らの育ちや境遇、職業などに基づいて回答してくる人間は莫迦の極みである。名前や職業は言うまでもなく、育ちや境遇すらも言葉に変換された時点で全て記号と化す。言葉という記号は便利な物であるが、言葉にした時点で記号と化す為に回答から遠ざかってしまう。死ぬ前には正確な解答を出したい。その反面、名前その他で回答しきれた気になれる莫迦に羨望してならない。どちらが幸せなのだろう。
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