味覚読解力音楽同一視
2003年10月21日 本・映画・音楽など 20日付の続きである。現在22日早朝。
敗戦国にはスラッシャーが多いというのが持論である。他にも提唱している人がいるかどうかは知らない。日本やドイツは他国に比較してスラッシャーが多いと聞いてそう思っただけなので持論と言える程の代物でもない。私の好きなバンドはプログレからポップ・ナンバー、スラッシュ迄多種多様な音作りをする。私はこのバンドのスラッシュ・ナンバーを聴いてからスラッシュに嵌った。なのでうちのはこのバンドはスラッシュ色が強く、プログレ好きの自分の聴く物ではないと思っている。実際にはプログレ色の方が強いバンドだ。アルバムを聴くと判る。なので数枚聴かせてみた。感想は、演奏は下手ではないが歌がダメ。褒めない人なので下手ではないと言うことは、上手いということである。20日付の最後の友人の歌へのダメ出しと、うちののダメ出しは違う。友人の言うダメな部分は世界観である。これはバンド・カラーなので受け付けない人にとっては嫌悪の対象にもなりかねない物で、それ故にコアなファンしかいないと言っても過言ではない。うちのが言うダメは私が良さを語っている最中に「でも訛っているし」。一蹴。意味合いは違うが友人にもうちのにもダメということは共通している。
私は自分の好きな物を人に薦めたがる癖がある。読んで気に入った本はボロボロになるまで人に貸しまくり、いいと思った音はとにかく聴けと薦めまくる。本の趣味は良いと自負している。他者からも大概面白かったとの感想を得られている。しかし音楽の趣味に於いては他者とは相容れない一線があるようだ。私が好きになるバンドやミュージシャンには、何故かイロモノ色が強い物が多い。なので他者からはイロモノ扱いを受ける。学生時代に嵌っていたバンドも、出戻りファンとなった今現在好きなバンドも同世代前後の人間で名前を知らない人はまずいないくらい著名なバンドである。けれど皆、名前を知っているが故に音を聴いてくれないのだ。音を聴けばただのイロモノでないことは判る筈なのに既に音まで知り尽くされたように扱われる。不思議でならなかったので考えた。
例として今現在好きなバンドを挙げる。このバンドはデビューの方法が限りなく、所謂企画物に近い扱いであった。それ故にか、世に出てきた当初のインパクトは強かった。強すぎた。その方法でのデビューをしたのは彼らであり、その方法を採ったが為に偏見を持たれるのは彼らの責任である。最新アルバムでひとつバンドから明言があった。ロックは色物である。きっとデビューのときから一貫しての姿勢を言葉にしただけであろう。それはいい。その姿勢が自分たちの生活を苦しめているのも承知の筈だ。イロモノ結構。どんな扱いを受けようと、私は音が好きだから聴き続けるし、愛しの君が脱退しない限りライヴにも足を運び続けるに違いない。私は出戻ってからデビュー時から最新迄の全てのアルバムを聴いた。好みでない曲が混ざっているアルバムも勿論ある。しかし全体としては特筆するに価する完成度を見せている。そしてその完成度はアルバムが新しくなる毎に増していっているのだ。
これは何を意味するか。彼らの音楽は成長・発展をし続けているということに他ならない。停滞はあっても後退はない。停滞期に於いても最低基準を軽くクリアするクオリティである。冷静に考えると凄い話なのだ。人は成長するものである。年齢や環境により成長の程度は変化するだろう。それでも成長はしている。これは多くの人間が頭で、身体で判っていることだと思う。けれどそれと同じことが音楽にも言えるということ迄は考えが至らない人の方が大多数であるようだ。彼らは実力を持ってデビューし且つ活動を続けている中で成長し続けている。デビュー当時と現在では世界観も変化しているし音自体も変わっている。楽曲の完成度は当時から高かったが、その比でないくらいの高さだ。なので鮮烈なデビュー当時の彼らの姿しか知らない人々にこのバンドの名前を言っただけで、ああ知っているけど好きじゃない、と言われるのは非常に苛立つ。確かに当時は好きだと思わずイロモノという感想しか抱かなかったかもしれない。けれどそれから10数年、その人々も成長しただろう。バンド自体も成長している。今聴けば当時とは違う感想を持つかもしれない、とは思わないのかと激しく疑問であるが、思わないらしい。
成長過程に於いて味覚の変化は有名である。私は未だに餓鬼舌でプリンや卵焼きが大好きだったりするのだが、多くの人は味覚が変化している。子供の頃には食べられなかった山葵や辛子が美味しく感じられるようになっているらしい。私は食べられないが、そういう人が多いことは知っている。本を読むにあたり、これは学生時代に読んでおく本だ、或る程度歳を取れば解るようになる本だ、と言われることがある。音楽には同じことが言えないのか? 言える。断言する。個人差があるとは思うが、昔は受け付けなかった音を年月を経て聴き直すことにより受け付けられるようになる人もいるに違いない。その世界観や姿勢により好き嫌いの分かれるバンドだ。解っている。しかし今一度聴き直して欲しい。聴き直すことにより私のように出戻る人や新たにファンとなる人も絶対にいる。これも断言する。若年層の一部で或るバンドがコアな人気を得ている。深夜番組でそのバンドが紹介されているのを見たことがある。新鮮なオリジナリティがどうのこうのと言われていたと記憶している。違うだろ! 明らかにこのバンドのカラーを引きずって……むしろパクり? というスタイル及び音ではないか!! そのバンドのメンバーは私の好きなこのバンドのファンだと公言しており、ライヴ会場でそのメンバーを見たという人もいる。なのに何故こちらには目を向けられないのか。非常に無常で無情な話である。
若年層のファンが増えていると書いた。彼らはこのバンドのデビュー当時を知らない。何かのきっかけで音を聴き、好きになってから遡って知識を得てデビュー当時を知る。若年層のファンにイロモノとして見ている人は少ないと思う。そもそもイロモノと認識したらそこで止まり、ファンにはならないだろう。若年層のファン数人と話をしたことがある。皆、このバンドを独特の世界観を持った実力派として認識していた。我がことのように嬉しい。若さは柔軟性を兼ね備えていると書いた。バンドそのものはイロモノ色を捨てていない。最新アルバム発売にあたって上記で書いた明言をしたのだから当然である。けれど柔軟性を持つ若者はその発言に留まらずに音に飛び込んでゆく。そして時代は変わっている。世代としての考え方が変化している。その為か狂信的にはならない傾向が見て取れる。彼らより年上の出戻りファンである私は、恥ずかしいオバチャンと思われないように振舞いたいと思う。洒落の通じるオバチャンと思われれば本望……できればオネエチャンと思って欲しいか。
BGM/アルバム「無限の住人」
敗戦国にはスラッシャーが多いというのが持論である。他にも提唱している人がいるかどうかは知らない。日本やドイツは他国に比較してスラッシャーが多いと聞いてそう思っただけなので持論と言える程の代物でもない。私の好きなバンドはプログレからポップ・ナンバー、スラッシュ迄多種多様な音作りをする。私はこのバンドのスラッシュ・ナンバーを聴いてからスラッシュに嵌った。なのでうちのはこのバンドはスラッシュ色が強く、プログレ好きの自分の聴く物ではないと思っている。実際にはプログレ色の方が強いバンドだ。アルバムを聴くと判る。なので数枚聴かせてみた。感想は、演奏は下手ではないが歌がダメ。褒めない人なので下手ではないと言うことは、上手いということである。20日付の最後の友人の歌へのダメ出しと、うちののダメ出しは違う。友人の言うダメな部分は世界観である。これはバンド・カラーなので受け付けない人にとっては嫌悪の対象にもなりかねない物で、それ故にコアなファンしかいないと言っても過言ではない。うちのが言うダメは私が良さを語っている最中に「でも訛っているし」。一蹴。意味合いは違うが友人にもうちのにもダメということは共通している。
私は自分の好きな物を人に薦めたがる癖がある。読んで気に入った本はボロボロになるまで人に貸しまくり、いいと思った音はとにかく聴けと薦めまくる。本の趣味は良いと自負している。他者からも大概面白かったとの感想を得られている。しかし音楽の趣味に於いては他者とは相容れない一線があるようだ。私が好きになるバンドやミュージシャンには、何故かイロモノ色が強い物が多い。なので他者からはイロモノ扱いを受ける。学生時代に嵌っていたバンドも、出戻りファンとなった今現在好きなバンドも同世代前後の人間で名前を知らない人はまずいないくらい著名なバンドである。けれど皆、名前を知っているが故に音を聴いてくれないのだ。音を聴けばただのイロモノでないことは判る筈なのに既に音まで知り尽くされたように扱われる。不思議でならなかったので考えた。
例として今現在好きなバンドを挙げる。このバンドはデビューの方法が限りなく、所謂企画物に近い扱いであった。それ故にか、世に出てきた当初のインパクトは強かった。強すぎた。その方法でのデビューをしたのは彼らであり、その方法を採ったが為に偏見を持たれるのは彼らの責任である。最新アルバムでひとつバンドから明言があった。ロックは色物である。きっとデビューのときから一貫しての姿勢を言葉にしただけであろう。それはいい。その姿勢が自分たちの生活を苦しめているのも承知の筈だ。イロモノ結構。どんな扱いを受けようと、私は音が好きだから聴き続けるし、愛しの君が脱退しない限りライヴにも足を運び続けるに違いない。私は出戻ってからデビュー時から最新迄の全てのアルバムを聴いた。好みでない曲が混ざっているアルバムも勿論ある。しかし全体としては特筆するに価する完成度を見せている。そしてその完成度はアルバムが新しくなる毎に増していっているのだ。
これは何を意味するか。彼らの音楽は成長・発展をし続けているということに他ならない。停滞はあっても後退はない。停滞期に於いても最低基準を軽くクリアするクオリティである。冷静に考えると凄い話なのだ。人は成長するものである。年齢や環境により成長の程度は変化するだろう。それでも成長はしている。これは多くの人間が頭で、身体で判っていることだと思う。けれどそれと同じことが音楽にも言えるということ迄は考えが至らない人の方が大多数であるようだ。彼らは実力を持ってデビューし且つ活動を続けている中で成長し続けている。デビュー当時と現在では世界観も変化しているし音自体も変わっている。楽曲の完成度は当時から高かったが、その比でないくらいの高さだ。なので鮮烈なデビュー当時の彼らの姿しか知らない人々にこのバンドの名前を言っただけで、ああ知っているけど好きじゃない、と言われるのは非常に苛立つ。確かに当時は好きだと思わずイロモノという感想しか抱かなかったかもしれない。けれどそれから10数年、その人々も成長しただろう。バンド自体も成長している。今聴けば当時とは違う感想を持つかもしれない、とは思わないのかと激しく疑問であるが、思わないらしい。
成長過程に於いて味覚の変化は有名である。私は未だに餓鬼舌でプリンや卵焼きが大好きだったりするのだが、多くの人は味覚が変化している。子供の頃には食べられなかった山葵や辛子が美味しく感じられるようになっているらしい。私は食べられないが、そういう人が多いことは知っている。本を読むにあたり、これは学生時代に読んでおく本だ、或る程度歳を取れば解るようになる本だ、と言われることがある。音楽には同じことが言えないのか? 言える。断言する。個人差があるとは思うが、昔は受け付けなかった音を年月を経て聴き直すことにより受け付けられるようになる人もいるに違いない。その世界観や姿勢により好き嫌いの分かれるバンドだ。解っている。しかし今一度聴き直して欲しい。聴き直すことにより私のように出戻る人や新たにファンとなる人も絶対にいる。これも断言する。若年層の一部で或るバンドがコアな人気を得ている。深夜番組でそのバンドが紹介されているのを見たことがある。新鮮なオリジナリティがどうのこうのと言われていたと記憶している。違うだろ! 明らかにこのバンドのカラーを引きずって……むしろパクり? というスタイル及び音ではないか!! そのバンドのメンバーは私の好きなこのバンドのファンだと公言しており、ライヴ会場でそのメンバーを見たという人もいる。なのに何故こちらには目を向けられないのか。非常に無常で無情な話である。
若年層のファンが増えていると書いた。彼らはこのバンドのデビュー当時を知らない。何かのきっかけで音を聴き、好きになってから遡って知識を得てデビュー当時を知る。若年層のファンにイロモノとして見ている人は少ないと思う。そもそもイロモノと認識したらそこで止まり、ファンにはならないだろう。若年層のファン数人と話をしたことがある。皆、このバンドを独特の世界観を持った実力派として認識していた。我がことのように嬉しい。若さは柔軟性を兼ね備えていると書いた。バンドそのものはイロモノ色を捨てていない。最新アルバム発売にあたって上記で書いた明言をしたのだから当然である。けれど柔軟性を持つ若者はその発言に留まらずに音に飛び込んでゆく。そして時代は変わっている。世代としての考え方が変化している。その為か狂信的にはならない傾向が見て取れる。彼らより年上の出戻りファンである私は、恥ずかしいオバチャンと思われないように振舞いたいと思う。洒落の通じるオバチャンと思われれば本望……できればオネエチャンと思って欲しいか。
BGM/アルバム「無限の住人」
コメント