自己申告必須及びフェイク禁止令
2003年10月17日 雑感・所感 女って莫迦ばかりだ……。同性だがそう思う。同性だからこそ思うことなのかもしれない。Aについて訊いているのにZの話をし始めたりする。私は話が飛んでも面白ければそれで良しという考えの持ち主ではあるが、大概に於いて、否、99.999999……%の確率でつまらない。つまらん奴は一生墓の中で黙っていろ! とは流石に言い過ぎなので、つまらん奴はせめて私の前に現れないで欲しい、と切に切に願ってやまない。目に見えなければいないも同然なので気にならない。だが現実とは惨いもので、つまらん奴に限って自分はユーモアのある人間だと思っていたりする。性質が悪い。更に自らが公序良俗の見本のような気持ちでいたり迄する。そしてこれらの勘違いを主張したがる。死んでしまえばいいのに、と本気で思う。昔からそう思い続けている。
今現在、私と親しい友人たちは皆長い付き合いである。一番長い付き合いの友人はもう10年以上の仲良しだ。彼女は大変に利口だ。他の友人たちも男女を問わず利口。学生ではなくなってから、友人たちと会ったり話したりする機会は格段に減っている。皆、違う道に歩みだすのだから仕方がない。社会に出てから同じ会社の同僚として知り合い親しくなった連中もいる。それでもどちらかが退社すればやはり話す機会は減る。けれど、数ヶ月ぶりで、数年ぶりで会っても友人らと過ごす時間は楽しく有意義である。面白い連中ばかりだから当然だ。莫迦と話す為に時間を割くのは無為なので自然と疎遠になる。きっと疎遠になった相手は私を莫迦だと思っているのだろう。莫迦の莫迦たる由縁である。先日書いた「莫迦が羨ましい」という話と矛盾しているように読めるかもしれない。でも矛盾は生じていない。
死ね! と本気で思っている莫迦の何が羨ましいか。莫迦は、死ね! と本気で思われていることに気付かない頭の持ち主なのだ。さぞかし楽だろうと思う。生きる上での気苦労が格段に少なかろう。だから羨ましい。無知の知。自らが無知だと気付かない人間はどこまで行っても無知のままだ。気付いた時点で無知から一歩進む。莫迦はこんなことは考えないらしい。考えずに自分は真っ当な人間だと漠然とした自信を持って生きている。自信を持つには何らかの根拠があるべきではないか。若ければ漠然とした、または勘違いも甚だしい自信が基となり真の自信へと繋がる何かを身に付けられる可能性がある。しかし或る程度年齢を重ねた上で漠然とした自信を持っている人間のなんと多いことか。そしてそれが同性である可能性の高いことといったらもう、自分の子宮を取り外して莫迦の耳にでも捻じ込んでやりたい程だ。男尊女卑の思想に基づき、女は莫迦だと言う男もいる。最も女に嫌われるタイプの一種かと思われる。しかし私は同意する。男尊はともかく、女卑に激しく同意する。女は卑しくいやらしい。遣ること為すこと言うこと書くこと、森羅万象に於いて男よりも劣っていると思う。私自身、男には敵わないと確信している。大きな括りで男女を比較しての話だ。両性共に莫迦は存在している。けれども比率として、莫迦な女>莫迦な男、という式が成り立つに違いない。こんなことを書く程に私は女に失望している。
悲しきかな、私には人を見る目が欠如している。他者を信用する迄の、利口だと認識する迄の時間軸が狂っている。周囲の利口な友人たちに比べ、私は他者を信用したり利口だと認識する迄のスパンが短過ぎるようだ。だからこのような落胆にしょっちゅう陥る。利口そうだと読んで近付き、嗚呼、莫迦だったのか……と思わされることが多々多々多々多々ある。莫迦は判別し易いように、額にでもきちんと、莫迦です。と書いておいてくれなければ私が誤解してしまうではないか。迷惑だ。利口な振りをする技術に長けた莫迦が多過ぎる。額に書くのが恥ずかしければ、初対面の時点で自己申告して欲しい。莫迦は莫迦なりに振舞ってくれればいいのに利口そうに見えるフェイクレザーに身を包む。フェイクは嫌いだ。革は本革。合皮は否定。同じ本革でも豚革より牛革、牛革より羊革。ファーならラビットよりミンクの方がいいに決まっている。世界的な環境だの何だのはどうでもいい。私に優しい世界になれば、私は嬉しい。莫迦は莫迦らしくすっこんでいろ。
利口かもしれないと思っていた知人が莫迦であることが発覚した。しかもここ最近連続で複数人の莫迦が芋蔓式に見つかった。落胆。しかし私は少しだけ寛解したようだ。フェイク利口を身に纏っていた莫迦を発見した場合の対処法が変わった。昔ならすぐさま縁切り。共通の知人たちにも縁切り宣言。これらが症状だという知識を得たので縁切り宣言はしていない。無視したり慇懃無礼に接したりしている。相手が私の思惑に気付かなくても構わない。今の私は莫迦を練習台に他者との距離感を測る訓練中なのだ。利口な人間からは別の形で得るものがあるが、莫迦から何かを得ようと思ったら練習台になってもらうくらいしかなかろう。莫迦と鋏は使いよう。莫迦は莫迦故に練習台にされていることにも気付かない。やはり莫迦はいい。中には莫迦が露呈したことで私とより仲良くなったと勘違いする莫迦もいるだろう。そういう莫迦は他の莫迦よりも一段高い練習台だ。莫迦として私の成長に役立って欲しい。諸事情に因り私は他者との距離感を測るのが下手である。幼少時から距離感を測る訓練をしてこなかったツケが大人になった今、きている。今の私が測れる距離感は恐らく5歳児のそれくらいではないだろうか。ここから一朝一夕で年齢相応迄成長するのは流石に無理だ。義務教育終了後相応のそれを身に付けるのが今の目標である。その程度に測れれば社会復帰も目前だ。何故なら莫迦には義務教育終了後相当のそれで対処できるであろうし、利口に対してはそもそも距離感を測る必要がない。
BGM/不本意だがうちのが聴きいていた何かのサントラが耳に入ってきていた。普段私が好んで聴いている音とは違うタイプの音だったものの嫌いではない。うちのが余りにも私の好みに外れたCDをかけ始めたら、私は大音量でスレイヤーを流して応戦する。うちのは私よりも耳が肥えていると一般的に言われる趣味の持ち主なのだ。明日は早起きして年末ライヴのチケットを取らなければならない。当然、私の好きな音を聴きに、想い人を観に行くのである。うちのも私も音楽好きではあるがきっと一生連れ添ったとしても一緒にライヴやイベントに行くことはないだろうと共通認識されている。それはそれで良し。
今現在、私と親しい友人たちは皆長い付き合いである。一番長い付き合いの友人はもう10年以上の仲良しだ。彼女は大変に利口だ。他の友人たちも男女を問わず利口。学生ではなくなってから、友人たちと会ったり話したりする機会は格段に減っている。皆、違う道に歩みだすのだから仕方がない。社会に出てから同じ会社の同僚として知り合い親しくなった連中もいる。それでもどちらかが退社すればやはり話す機会は減る。けれど、数ヶ月ぶりで、数年ぶりで会っても友人らと過ごす時間は楽しく有意義である。面白い連中ばかりだから当然だ。莫迦と話す為に時間を割くのは無為なので自然と疎遠になる。きっと疎遠になった相手は私を莫迦だと思っているのだろう。莫迦の莫迦たる由縁である。先日書いた「莫迦が羨ましい」という話と矛盾しているように読めるかもしれない。でも矛盾は生じていない。
死ね! と本気で思っている莫迦の何が羨ましいか。莫迦は、死ね! と本気で思われていることに気付かない頭の持ち主なのだ。さぞかし楽だろうと思う。生きる上での気苦労が格段に少なかろう。だから羨ましい。無知の知。自らが無知だと気付かない人間はどこまで行っても無知のままだ。気付いた時点で無知から一歩進む。莫迦はこんなことは考えないらしい。考えずに自分は真っ当な人間だと漠然とした自信を持って生きている。自信を持つには何らかの根拠があるべきではないか。若ければ漠然とした、または勘違いも甚だしい自信が基となり真の自信へと繋がる何かを身に付けられる可能性がある。しかし或る程度年齢を重ねた上で漠然とした自信を持っている人間のなんと多いことか。そしてそれが同性である可能性の高いことといったらもう、自分の子宮を取り外して莫迦の耳にでも捻じ込んでやりたい程だ。男尊女卑の思想に基づき、女は莫迦だと言う男もいる。最も女に嫌われるタイプの一種かと思われる。しかし私は同意する。男尊はともかく、女卑に激しく同意する。女は卑しくいやらしい。遣ること為すこと言うこと書くこと、森羅万象に於いて男よりも劣っていると思う。私自身、男には敵わないと確信している。大きな括りで男女を比較しての話だ。両性共に莫迦は存在している。けれども比率として、莫迦な女>莫迦な男、という式が成り立つに違いない。こんなことを書く程に私は女に失望している。
悲しきかな、私には人を見る目が欠如している。他者を信用する迄の、利口だと認識する迄の時間軸が狂っている。周囲の利口な友人たちに比べ、私は他者を信用したり利口だと認識する迄のスパンが短過ぎるようだ。だからこのような落胆にしょっちゅう陥る。利口そうだと読んで近付き、嗚呼、莫迦だったのか……と思わされることが多々多々多々多々ある。莫迦は判別し易いように、額にでもきちんと、莫迦です。と書いておいてくれなければ私が誤解してしまうではないか。迷惑だ。利口な振りをする技術に長けた莫迦が多過ぎる。額に書くのが恥ずかしければ、初対面の時点で自己申告して欲しい。莫迦は莫迦なりに振舞ってくれればいいのに利口そうに見えるフェイクレザーに身を包む。フェイクは嫌いだ。革は本革。合皮は否定。同じ本革でも豚革より牛革、牛革より羊革。ファーならラビットよりミンクの方がいいに決まっている。世界的な環境だの何だのはどうでもいい。私に優しい世界になれば、私は嬉しい。莫迦は莫迦らしくすっこんでいろ。
利口かもしれないと思っていた知人が莫迦であることが発覚した。しかもここ最近連続で複数人の莫迦が芋蔓式に見つかった。落胆。しかし私は少しだけ寛解したようだ。フェイク利口を身に纏っていた莫迦を発見した場合の対処法が変わった。昔ならすぐさま縁切り。共通の知人たちにも縁切り宣言。これらが症状だという知識を得たので縁切り宣言はしていない。無視したり慇懃無礼に接したりしている。相手が私の思惑に気付かなくても構わない。今の私は莫迦を練習台に他者との距離感を測る訓練中なのだ。利口な人間からは別の形で得るものがあるが、莫迦から何かを得ようと思ったら練習台になってもらうくらいしかなかろう。莫迦と鋏は使いよう。莫迦は莫迦故に練習台にされていることにも気付かない。やはり莫迦はいい。中には莫迦が露呈したことで私とより仲良くなったと勘違いする莫迦もいるだろう。そういう莫迦は他の莫迦よりも一段高い練習台だ。莫迦として私の成長に役立って欲しい。諸事情に因り私は他者との距離感を測るのが下手である。幼少時から距離感を測る訓練をしてこなかったツケが大人になった今、きている。今の私が測れる距離感は恐らく5歳児のそれくらいではないだろうか。ここから一朝一夕で年齢相応迄成長するのは流石に無理だ。義務教育終了後相応のそれを身に付けるのが今の目標である。その程度に測れれば社会復帰も目前だ。何故なら莫迦には義務教育終了後相当のそれで対処できるであろうし、利口に対してはそもそも距離感を測る必要がない。
BGM/不本意だがうちのが聴きいていた何かのサントラが耳に入ってきていた。普段私が好んで聴いている音とは違うタイプの音だったものの嫌いではない。うちのが余りにも私の好みに外れたCDをかけ始めたら、私は大音量でスレイヤーを流して応戦する。うちのは私よりも耳が肥えていると一般的に言われる趣味の持ち主なのだ。明日は早起きして年末ライヴのチケットを取らなければならない。当然、私の好きな音を聴きに、想い人を観に行くのである。うちのも私も音楽好きではあるがきっと一生連れ添ったとしても一緒にライヴやイベントに行くことはないだろうと共通認識されている。それはそれで良し。
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