チャイルディッシュとセクシャリティ 前編
2003年10月14日 雑感・所感 世の中には呆れることが多々ある。某巨大掲示板某板某スレでの大の大人の罵り合う姿、某クチコミサイトでリアル中坊と同化してはしゃぐ大人の姿。しかしこれらは私に実害はないので許容範囲。実害があったら腹が立つ。実害とは何か。野暮な人間の私への物言いである。私が定義する野暮な人間とは、そこ等に落ちている常識らしきものというという半透明の旗を、さも自作した丈夫な帆布の旗のように振りかざして正論らしきものを小声で言う大人である。チャイルディシュ。大人ならば世間で曖昧に定義されているように錯覚されている常識や正論は知っていて当然であり、そのギリギリの線上で遊ぶのが楽しいのではないか。そういった遊び方を知らないだけならいい。ただ遊んでいる人間に文句を言うな。私の前にそんな野暮は現れない。小声だから私には届かないのだ。小声というのがまたいやらしさを醸し出している。嫌悪の対象だ。小声で正論らしきものを振りかざす。小声で言いつける。余りにも弱気。余りにも安直。余りにもチャイルディシュ。
B子ちゃんたちが職員室に行き担任教師に言いました「先生。Aくんたちが校庭いっぱいを使ってボールで遊んでいたので私たちは遊べませんでした。校舎の陰から見て遊ぶのを諦めました。Aくんたちはいけないと思います」。義務教育課程の現場ではよくあることだろうし、またアリだと思う。しかし大人になったらナシだ。阿呆か。B子たちの非を挙げてみる。まず1点。その場でAたちに「私たちもここで遊びたいんだけど」と交渉しなかったこと。次。その学校の生徒であれば校庭を使う権利はあるのだから、Aたちが遊んでいようと端から遊び始めて次第にB子らが遊ぶ範囲を広げていけたこと。もうひとつ。後になって担任教師にこそこそと出来事を告げたところで、そのときそこで遊べなかったことには変わりないので意味がないということ。最後。Aたちがボール遊びをしているためボールが飛んできたら嫌だと思うなら、中庭や屋上で遊ぶという手段を考えられたこと。私が担任教師なら以上のことをB子たちに教える。しかし教師によってはB子たちから名前が出てきたAのみを呼び出し「或る子たちから聞いたんだが、校庭いっぱいを使ってボール遊びをするのは良くない。他の遊びたい子たちのことも考えなさい」と説教をするのだろう……。Aたちの非が私には思いつかない。「私たちもここで遊びたいから場所を空けて」「ボール遊びは飛んでくると危ないから他の遊びにして」とB子たちがAに交渉していたと仮定する。そしてAたちがそれを断った、または無視した。そうなるとAたちにも非はある。校庭は皆の物だから占拠する権利はない。上の例え話を大人の言葉に置き換える。自分たちの権利を堂々とは主張せず且つ他の選択肢の模索もせず、後になって他者への依存で解決を求める人間がいるということだ。そして依存された他者もまた他者に解決を求める悪循環。
私や私の友人が好むギリギリの線上での遊び方の一例。
友人1「彼氏が〜〜で困っちゃってさあ」
私「そんなの△△じゃない?」
友人2「そうだよ。大体1は彼氏と週に何回?」
1「△△かあ。週に一度かな?」
私「足りてる?」
1「内容が濃いから足りてるよ」
私「どんなことすんの?」
2「でかい?かたい?」
1「×××とかねー。大きさは…普通?って違うよ! 私は〜〜で困ってるんだってば!」
2「だからそれは△△!終了!×××までするのかあ。ふうん」
私「1がどのくらいのを普通と思っているのかが問題だ」
1「えー?(手で示しつつ)これくらい?」
2「大きさよりも硬さだろう!」
こんな会話を居酒屋でする。誰かの家でするのは楽しくない。公の場であり他の客や店員も存在する居酒屋でやや大きめの声でこんな脈絡があるようでない会話。身振り手振りをつけてなら尚楽しい。これが通夜の席なら遊びにはならない。顰蹙モノなんて言葉では済まされないだろう。或る芸人が自分の父親の通夜の席で酔って「二人羽織り〜」と寝かされている故人を操りだし、参列していた他の芸人たちに大ウケしたという話を聞いたことがある。これは芸人だからアリなのだ。一般人である私にはナシだ。こんな芸人に私はなりた……ではなく、TPOの話である。通夜の席で上記の会話はナシだ。しかし居酒屋ではアリ。酔って騒いで良い場だからである。ここでもし隣席の客たちが「お前ら、こんなところでそんな話をするなよ!」といちゃもんを付けてきたら、その客たちこそ野暮だと私は思う。聞こえよがしに「凄い会話してるねぇ〜」なんて言うのは更に野暮だ。私はシモネタを本気で嫌っている人間に出会ったことがない。上記友人1も2も私も皆、世間的にはシモネタってなんですのん? という猫を被って生活している。川原泉の名作、笑う大天使の柚子・史緒・和音並みにでかい猫を背負っている。当然である。ところが被る必要がない相手・場所だと判断されれば背負われた猫は自ら降りてゆく。基本的に猫は粋である筈だ。
B子ちゃんたちが職員室に行き担任教師に言いました「先生。Aくんたちが校庭いっぱいを使ってボールで遊んでいたので私たちは遊べませんでした。校舎の陰から見て遊ぶのを諦めました。Aくんたちはいけないと思います」。義務教育課程の現場ではよくあることだろうし、またアリだと思う。しかし大人になったらナシだ。阿呆か。B子たちの非を挙げてみる。まず1点。その場でAたちに「私たちもここで遊びたいんだけど」と交渉しなかったこと。次。その学校の生徒であれば校庭を使う権利はあるのだから、Aたちが遊んでいようと端から遊び始めて次第にB子らが遊ぶ範囲を広げていけたこと。もうひとつ。後になって担任教師にこそこそと出来事を告げたところで、そのときそこで遊べなかったことには変わりないので意味がないということ。最後。Aたちがボール遊びをしているためボールが飛んできたら嫌だと思うなら、中庭や屋上で遊ぶという手段を考えられたこと。私が担任教師なら以上のことをB子たちに教える。しかし教師によってはB子たちから名前が出てきたAのみを呼び出し「或る子たちから聞いたんだが、校庭いっぱいを使ってボール遊びをするのは良くない。他の遊びたい子たちのことも考えなさい」と説教をするのだろう……。Aたちの非が私には思いつかない。「私たちもここで遊びたいから場所を空けて」「ボール遊びは飛んでくると危ないから他の遊びにして」とB子たちがAに交渉していたと仮定する。そしてAたちがそれを断った、または無視した。そうなるとAたちにも非はある。校庭は皆の物だから占拠する権利はない。上の例え話を大人の言葉に置き換える。自分たちの権利を堂々とは主張せず且つ他の選択肢の模索もせず、後になって他者への依存で解決を求める人間がいるということだ。そして依存された他者もまた他者に解決を求める悪循環。
私や私の友人が好むギリギリの線上での遊び方の一例。
友人1「彼氏が〜〜で困っちゃってさあ」
私「そんなの△△じゃない?」
友人2「そうだよ。大体1は彼氏と週に何回?」
1「△△かあ。週に一度かな?」
私「足りてる?」
1「内容が濃いから足りてるよ」
私「どんなことすんの?」
2「でかい?かたい?」
1「×××とかねー。大きさは…普通?って違うよ! 私は〜〜で困ってるんだってば!」
2「だからそれは△△!終了!×××までするのかあ。ふうん」
私「1がどのくらいのを普通と思っているのかが問題だ」
1「えー?(手で示しつつ)これくらい?」
2「大きさよりも硬さだろう!」
こんな会話を居酒屋でする。誰かの家でするのは楽しくない。公の場であり他の客や店員も存在する居酒屋でやや大きめの声でこんな脈絡があるようでない会話。身振り手振りをつけてなら尚楽しい。これが通夜の席なら遊びにはならない。顰蹙モノなんて言葉では済まされないだろう。或る芸人が自分の父親の通夜の席で酔って「二人羽織り〜」と寝かされている故人を操りだし、参列していた他の芸人たちに大ウケしたという話を聞いたことがある。これは芸人だからアリなのだ。一般人である私にはナシだ。こんな芸人に私はなりた……ではなく、TPOの話である。通夜の席で上記の会話はナシだ。しかし居酒屋ではアリ。酔って騒いで良い場だからである。ここでもし隣席の客たちが「お前ら、こんなところでそんな話をするなよ!」といちゃもんを付けてきたら、その客たちこそ野暮だと私は思う。聞こえよがしに「凄い会話してるねぇ〜」なんて言うのは更に野暮だ。私はシモネタを本気で嫌っている人間に出会ったことがない。上記友人1も2も私も皆、世間的にはシモネタってなんですのん? という猫を被って生活している。川原泉の名作、笑う大天使の柚子・史緒・和音並みにでかい猫を背負っている。当然である。ところが被る必要がない相手・場所だと判断されれば背負われた猫は自ら降りてゆく。基本的に猫は粋である筈だ。
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