ポリシーを持った公開オナニーの自覚
2003年10月8日 雑感・所感 現在11月4日。
マイスリーとサイレースを入れて眠りに付いたのに3時間で目覚めてしまった。サイレース、意味なし。二度寝をすると今日の予定が狂いそうなのでもうこのまま起きていることに決定。暇なので日記を書く。自分で日記を付け始めてから、他人様の日記も覗かせて貰うことが増えた。私のような活字文体で書いている人は少ない。それはいい。その日の出来事を書いている人が多い。それもいい。それにしても世の中には面白い人が沢山いることが解ってきた。悪い意味で。面白い=莫迦と言い換えられる。悪い意味なので面白い=詰まらないとも言い換えられる。皆が皆、文筆業を営んでいる、または営んでいた訳ではあるまいし致し方ないことではあるが、それにしても失笑を禁じえない日記が数多ある。世の広さを思い知らされる。他人様の日記を読むことで、やはり世の中は大多数の莫迦と少数の利口で成り立っていることがよく理解できてきた。私の考え方は間違ってはいなかったようである。
莫迦の中でも特筆して性質が悪いのは、自分は面白い人間だと勘違いしている莫迦である。絶対にお近付きになりたくないが、傍で見ている分には面白い……というか、安心感を抱かせてもらえる。やはり莫迦はいい。ある日記で、冒頭に「さっき迄書いていた文章を一度削除して、今、書き直している。さっきまでの文章は詰まらなかったからだ」といったことを書いている人がいた。読み進めた。つまんねー! これよりも詰まらなかったという「さっきまでの文章」とは果たしてどれほど詰まらなかったのだろう。思いを馳せるが私の想像の範疇を超えているに決まっている。またそのような冒頭を付けなければ、ただの詰まらない文章で済むのに、余計な一文の所為でその文章の詰まらなさがまた際立って見える。莫迦って凄い。余計な一文の所為で書いている本人の、これは面白いだろう? という自己満足がありありと見えることに気付いていないらしい。凄い……。ある日記には「ここは○○するところですよ」「これは△△しながら読んでください」などと書かれていた。絶句。書き手が読み手に読み方を強要している。日記にト書きはいらん! 兎角、第三者である読み手を無視した日記が目に付く。書き手は日記なのでそれで良いと思っているのかもしれない。大いなる誤解ではないだろうか? そんな日記ならウェブ上に公開する意味がない。自分のPC内で書け。わざわざ公開するからには何らかの意味を持たせるべきではないかと、私は思っている。
ネット上で日記サイトをレンタルして付けられる日記とは一体何なのか。友人が一言で的確に表現してくれた。公開オナニー。大正解である。私もここで友人らへの近況報告及び文章訓練を兼ねて公開オナニーしているに他ならない。私にはその自覚があるのでこのような文体で書いているのであり、テーマも公開オナニーとして他者に迷惑がかからないよう選んでいるつもりである。そうでない者を非難する気は全くないので誤解なきよう。ただ、莫迦って面白いな、と思わせてもらっているだけなのだ。公開オナニーの文章に真の意味で面白いもへったくれもない。ましてや読み手の読み方に書き手が口出しするなど、私にとっては禁忌である。日記に限らず、文章表現者はその文章を公開したら最後、読み手に全てを委ねるべきだと私は考えている。物書きとして生活していた以前から変わらないスタンスであり、これが変わることは今後もないだろう。読み手に委ねられない文章には、書き手の甘えと自信のなさが垣間見られる。それは恥ずかしい行為なのだ。
また日記上での「(笑)」も恥ずかしい物のひとつだと思っている。故・林家三平が額に片手を持っていく、ここは笑うところですよ、のサインに等しいと思う。三平にとってそれは芸風のひとつとして確立されていたのでアリ。しかし素人の公開オナニー日記に於いてそれは如何なものか。お笑い芸人の禁忌のひとつに、自分のネタに自分でウケてしまうというのがある。それに等しく思える。「(笑)」を書いている者にそんな自覚はないだろうが、読み手にはそう受け取れてしまう。私も個人的メールなどでは自己ツッコミとして「(w」を付けることもある。それはメールという手紙にも等しい文章であり、相手が気心知れている相手故だ。誰が読むか判らないここでは、一切そのような表現は使わないことにしている。これでもまだ、書き手としてのポリシーは残っている。
プライド、というものがある。得てして莫迦はプライドを沢山持っているように思う。莫迦の極み。プライドはひとつでいいのである。多くのプライドを所持している者は、多くの縛りを自分で設定しているに他ならず、またその設定が多いが故にプライドを守りきれず矛盾が生じたりする。本人だけでなく、見ている・聞いている側も恥ずかしい。私のことをプライドのない人間だと勘違いしてる莫迦を数知れず見てきた。そういう人間とは大概疎遠になっている。またプライドと称する物を沢山所有していると公言している者とも疎遠になっている。莫迦だから近付きたくないのである。私のプライドとは、自分が書き綴る文章だけである。その文章に他者がどのような感想を持っても構わない。読み手が何らかの心の動きを持ってくれれば本望だし、見当違いでないケチを付けられれば今後の自分の文章表現に役立つ。他者に何も影響を与えない文章を書くことだけは、私のプライドに傷が付く。日々是精進。
前述とは違う或る友人が自分のPC内で日記をつけ始めたらしい。彼女は公開するに値しない且つ公開する勇気がない故のPC内日記である。恐らく無自覚であろうが、ウェブ上の日記=公開オナニーと解っているのだろう。彼女のメールはいい意味で女の子らしいメールである。文章力は確かにイマイチかもしれないが、和ませてくれる文章ではある。私は彼女に、PC内日記に自信が付いたら日記サイトをレンタルすることを薦めている。ここでもさるさるでもどこでもいいので、是非とも早く公開して欲しい。読者を和ませる、という私にはない力を持った文章力の持ち主なのだ。かわいい文章を素で書ける彼女の性格が私は好きだ。私はかわいい文章を書こうとすると、かわいく見せようとしている意図が文章中に滲み出てしまい、卑しい文章になってしまう。彼女は文章力に自信がないらしい。はっきり言わせてもらえれば、構成力は確かにまだ足りない。しかしここ最近のメールのやり取りで構成力の向上を、私は感じている。もう一歩でただのオナニーから公開オナニーにできる迄に発展しそうな気配を感じている。友人の成長は、私にとっても嬉しい。
以前、ここで私の文章の欠点は構成力の弱さだと書いた。友人の現役ライターに読んでもらったところ、それが向上しているとのお褒めの言葉をいただいた。有難い話である。3000文字前後という文字数制限は、構成力を身につけるに適した文字量であるらしい。尤も文字数制限いっぱいに文章を書いている日記にお目にかかったことはないのだが、まあ大多数の日記作者はプロ意識なく書いているのだろうからそれも良かろう。ただ、日記中で自分の職業をライターだと書いていながらネット文体の駄文書き散らかしを目にすると、やはり落胆してしまう。こんな文章力の奴が金を貰っているのかと思うと、我が身が哀れになってきてしまう。早く社会復帰を果たしたいものだ。因みにタイトル前の記号の表情を変えないのも、読み手に先入観を与えるのを避けているからである。
マイスリーとサイレースを入れて眠りに付いたのに3時間で目覚めてしまった。サイレース、意味なし。二度寝をすると今日の予定が狂いそうなのでもうこのまま起きていることに決定。暇なので日記を書く。自分で日記を付け始めてから、他人様の日記も覗かせて貰うことが増えた。私のような活字文体で書いている人は少ない。それはいい。その日の出来事を書いている人が多い。それもいい。それにしても世の中には面白い人が沢山いることが解ってきた。悪い意味で。面白い=莫迦と言い換えられる。悪い意味なので面白い=詰まらないとも言い換えられる。皆が皆、文筆業を営んでいる、または営んでいた訳ではあるまいし致し方ないことではあるが、それにしても失笑を禁じえない日記が数多ある。世の広さを思い知らされる。他人様の日記を読むことで、やはり世の中は大多数の莫迦と少数の利口で成り立っていることがよく理解できてきた。私の考え方は間違ってはいなかったようである。
莫迦の中でも特筆して性質が悪いのは、自分は面白い人間だと勘違いしている莫迦である。絶対にお近付きになりたくないが、傍で見ている分には面白い……というか、安心感を抱かせてもらえる。やはり莫迦はいい。ある日記で、冒頭に「さっき迄書いていた文章を一度削除して、今、書き直している。さっきまでの文章は詰まらなかったからだ」といったことを書いている人がいた。読み進めた。つまんねー! これよりも詰まらなかったという「さっきまでの文章」とは果たしてどれほど詰まらなかったのだろう。思いを馳せるが私の想像の範疇を超えているに決まっている。またそのような冒頭を付けなければ、ただの詰まらない文章で済むのに、余計な一文の所為でその文章の詰まらなさがまた際立って見える。莫迦って凄い。余計な一文の所為で書いている本人の、これは面白いだろう? という自己満足がありありと見えることに気付いていないらしい。凄い……。ある日記には「ここは○○するところですよ」「これは△△しながら読んでください」などと書かれていた。絶句。書き手が読み手に読み方を強要している。日記にト書きはいらん! 兎角、第三者である読み手を無視した日記が目に付く。書き手は日記なのでそれで良いと思っているのかもしれない。大いなる誤解ではないだろうか? そんな日記ならウェブ上に公開する意味がない。自分のPC内で書け。わざわざ公開するからには何らかの意味を持たせるべきではないかと、私は思っている。
ネット上で日記サイトをレンタルして付けられる日記とは一体何なのか。友人が一言で的確に表現してくれた。公開オナニー。大正解である。私もここで友人らへの近況報告及び文章訓練を兼ねて公開オナニーしているに他ならない。私にはその自覚があるのでこのような文体で書いているのであり、テーマも公開オナニーとして他者に迷惑がかからないよう選んでいるつもりである。そうでない者を非難する気は全くないので誤解なきよう。ただ、莫迦って面白いな、と思わせてもらっているだけなのだ。公開オナニーの文章に真の意味で面白いもへったくれもない。ましてや読み手の読み方に書き手が口出しするなど、私にとっては禁忌である。日記に限らず、文章表現者はその文章を公開したら最後、読み手に全てを委ねるべきだと私は考えている。物書きとして生活していた以前から変わらないスタンスであり、これが変わることは今後もないだろう。読み手に委ねられない文章には、書き手の甘えと自信のなさが垣間見られる。それは恥ずかしい行為なのだ。
また日記上での「(笑)」も恥ずかしい物のひとつだと思っている。故・林家三平が額に片手を持っていく、ここは笑うところですよ、のサインに等しいと思う。三平にとってそれは芸風のひとつとして確立されていたのでアリ。しかし素人の公開オナニー日記に於いてそれは如何なものか。お笑い芸人の禁忌のひとつに、自分のネタに自分でウケてしまうというのがある。それに等しく思える。「(笑)」を書いている者にそんな自覚はないだろうが、読み手にはそう受け取れてしまう。私も個人的メールなどでは自己ツッコミとして「(w」を付けることもある。それはメールという手紙にも等しい文章であり、相手が気心知れている相手故だ。誰が読むか判らないここでは、一切そのような表現は使わないことにしている。これでもまだ、書き手としてのポリシーは残っている。
プライド、というものがある。得てして莫迦はプライドを沢山持っているように思う。莫迦の極み。プライドはひとつでいいのである。多くのプライドを所持している者は、多くの縛りを自分で設定しているに他ならず、またその設定が多いが故にプライドを守りきれず矛盾が生じたりする。本人だけでなく、見ている・聞いている側も恥ずかしい。私のことをプライドのない人間だと勘違いしてる莫迦を数知れず見てきた。そういう人間とは大概疎遠になっている。またプライドと称する物を沢山所有していると公言している者とも疎遠になっている。莫迦だから近付きたくないのである。私のプライドとは、自分が書き綴る文章だけである。その文章に他者がどのような感想を持っても構わない。読み手が何らかの心の動きを持ってくれれば本望だし、見当違いでないケチを付けられれば今後の自分の文章表現に役立つ。他者に何も影響を与えない文章を書くことだけは、私のプライドに傷が付く。日々是精進。
前述とは違う或る友人が自分のPC内で日記をつけ始めたらしい。彼女は公開するに値しない且つ公開する勇気がない故のPC内日記である。恐らく無自覚であろうが、ウェブ上の日記=公開オナニーと解っているのだろう。彼女のメールはいい意味で女の子らしいメールである。文章力は確かにイマイチかもしれないが、和ませてくれる文章ではある。私は彼女に、PC内日記に自信が付いたら日記サイトをレンタルすることを薦めている。ここでもさるさるでもどこでもいいので、是非とも早く公開して欲しい。読者を和ませる、という私にはない力を持った文章力の持ち主なのだ。かわいい文章を素で書ける彼女の性格が私は好きだ。私はかわいい文章を書こうとすると、かわいく見せようとしている意図が文章中に滲み出てしまい、卑しい文章になってしまう。彼女は文章力に自信がないらしい。はっきり言わせてもらえれば、構成力は確かにまだ足りない。しかしここ最近のメールのやり取りで構成力の向上を、私は感じている。もう一歩でただのオナニーから公開オナニーにできる迄に発展しそうな気配を感じている。友人の成長は、私にとっても嬉しい。
以前、ここで私の文章の欠点は構成力の弱さだと書いた。友人の現役ライターに読んでもらったところ、それが向上しているとのお褒めの言葉をいただいた。有難い話である。3000文字前後という文字数制限は、構成力を身につけるに適した文字量であるらしい。尤も文字数制限いっぱいに文章を書いている日記にお目にかかったことはないのだが、まあ大多数の日記作者はプロ意識なく書いているのだろうからそれも良かろう。ただ、日記中で自分の職業をライターだと書いていながらネット文体の駄文書き散らかしを目にすると、やはり落胆してしまう。こんな文章力の奴が金を貰っているのかと思うと、我が身が哀れになってきてしまう。早く社会復帰を果たしたいものだ。因みにタイトル前の記号の表情を変えないのも、読み手に先入観を与えるのを避けているからである。
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