恥ずかしい大人
2003年10月6日 メイク・ファッション・ピアス これを記しているのは11月7日。
昨日、病院の待合室にオッサンがいた。オッサンがいるのはいい。オッサンは嫌でも私の視界に入る場所に座っていた。となると、オッサンの恰好が嫌でも目に入ってくる。うわ……、ケミカルウォッシュでウエストがゴムになって、裾に行くに従って細くなっているジーンズを穿いてるよ……。どこで売ってんだ、それ? と思った。今現在そういったジーンズを売っている店があるとすれば、スーパーの2階より上にある衣料品売り場くらいしか思いつかない。いや、そんなことに思いを馳せる迄もない。オッサンは何年も、もしかしたら何十年もそのジーンズを穿き続けているに違いない。駅近辺を歩く。物凄い肩パッドが入った原色スーツを着て、ティッシュオフもしていないことが安易に想像できるフューシャピンクの口紅を、唇の輪郭よりも明らかに小さく引いたオバハンを見かける。別に上記の例として挙げたふたりが特殊なのではない。自分にとっての、旬の時代を未だに引きずったファッションをしているオッサン・オバハンが大変に多いのだ。もっと判り易い例を挙げれば、カネコイサオ系の恰好をして街を闊歩している白塗りのオバハン。アレだ。
年齢を重ねる毎に容姿は変わり、似合う物も変わってくる。流行り廃りなどではなく、もっと単純な話である。ファッションメーカーは日々増減し、昔に比べて選択の幅はかなり広がっている。その中で今の自分に似合う物を探すことこそが大事なのだ。全盛期の自分が一番素敵だったと、その頃の自分にしがみついているのは非常にみっともない話であり、傍から見ている者にも恥ずかしさを覚えさせる。その恥ずかしさは、その者が自分の変化・成長に対応し切れていないチャイルディッシュさが与える物だ。歳を重ねることとは、経験を積みそれを基に成長していくことである。その成長を衰えとしか捉えられない者もいる。違うのだ。確かに歳を取れば皺も増え、身体も弛む。しかし内面は豊かになっている筈なのだ。その内面を堂々と表現できるファッションをできている大人は素敵である。
前に書いた、私が以前の職場で知り合った尊敬できる女性。第2の母親と勝手に心の中で思わせてもらっている女性。彼女はいつも歳相応のファッションをしていた。それは私の年代からしたら無条件にセンスがいいと褒められる物ではなかったが、悪趣味という訳でもなかった。彼女には似合っていた。彼女の内面の輝きを最大限に引き出すファッションをしていた。それは簡単なようでいて、実は難しいことである。私の母親も自身に似合う恰好を心得ている。しかしそれが歳相応かどうかと問われれば、答えに詰まってしまう。似合っているから良しと言えばそれまでだが、年齢相応・内面の表現・センスの全てを網羅したファッションはともかく難しい。上の段落で例として挙げたようなズレた者たちは、これら全てを実現できていない悪い例である。私たちの年代の多くの人間は、そのような悪い例の人々を反面教師にファッションを模索している。
有名人の中で、いい歳の取り方をしているなと思わせてくれる人たちがいる。人によって評価は変わるであろうが、私にとっては判り易い例として挙げるなら、広末涼子・菅野美穂・永作博美・深津絵里らがそうである。彼女らは若い時分から芸能界に身を置き、視聴者らは10代からの20代・30代となった彼女らの変遷を見てきている。私もその視聴者のひとりだ。彼女らのファッションは、そのときそのときの自分を上手に表現できていると思う。その陰にスタイリストの力が存在しているのは承知だ。言い換えれば、スタイリストにも彼女らの人生・個性などが理解されているのだろう。逆の例となる人たちもいる。敢えて名前を出しはしないが、人生を反映していない若作りの恰好や、個性が活かせていない野暮ったい恰好をしている人たち。そういう人を目にしてしまうと、笑いを通り越して悲しくなってきてしまう。見た目でも芸でも、特筆すべき何かがあってその世界に身を置いている筈なのに、それらが自己表現であるファッションでも活かせていないならば、意味が半減してしまうではないか。
20代後半。私は今、ファッションやメイクに於いての曲がり角に差し掛かっている。気を付けないと恥ずかしい大人の見本になってしまう。ましてや私の好みは若作りと捉えられかねない物である。フリルやティアードスカートが好きだと前に書いた。危険アイテムである。フリルと括られる形状にもいろいろあり、気を付けて選ばねばならない。ティアードスカートも然り。素材や色や柄に気を遣わなければならない。メイクに於いてブルーベースと判明したことにより、似合う色が判ったのはいい。けれどバリエーションを広げる必要がある。これらを怠ったが最後、他者に、この人の全盛期はこうだったのね……、という印象を与えてしまう。かといって先走って落ち着き過ぎた色や形状に頼る恰好はしたくない。そもそも落ち着き過ぎた恰好は好みではないので、自分自身が楽しくなく意味がない。自身でも楽しみつつ、歳相応のお洒落ができるのが理想である。
よく、○○は△歳迄または△歳からのブランドだ、などと言っている人がいる。視野が狭いと思う。印象だけで物事を語るのは危険だ。ブランド傾向としてターゲットの年齢層はあるだろう。それでも全ての商品が、その傾向に沿っているとは限らない。いろいろな物を見、いろいろな意見を取り入れ、その中で自分の意に沿った物を取り入れれば良い。また歳相応ではないアイテムとされるものであっても、その1着のみを身に付けて外に出る人はいない。それがワンピースだったとしても、靴下やストッキング、靴、鞄なども共に身に付けるだろうし、上にジャケットやコートやカーディガンを羽織ることもできる。全て含めてのバランスが取れていれば、その中に歳相応ではないアイテムを馴染ませることは可能である。似合う・似合わせるとはそういうことではないだろうか。私の親は50代半ばだが、オゾンの全面プリントジーンズを穿いていたりする。明らかにオゾンのターゲット層から外れている年齢だ。それでもトップスや小物で上手くバランスを取っている。流石は京都の着道楽。表情と同様に、ファッションにも人生経験は滲み出る。心身の成長を衰えと捉えてしまうと、人生はつまらなくなると思う。私は諸事情により今尚、心は成長過程にある。上手く成長し、上手く言葉で恰好で表現できるようになりたい。それが叶ったときこそ、私は堂々と胸を張って、大人になれた、と言えるときだと考えている。
BGM/「羽根物人生」「暗い日曜日」「遺言状放送」など
昨日、病院の待合室にオッサンがいた。オッサンがいるのはいい。オッサンは嫌でも私の視界に入る場所に座っていた。となると、オッサンの恰好が嫌でも目に入ってくる。うわ……、ケミカルウォッシュでウエストがゴムになって、裾に行くに従って細くなっているジーンズを穿いてるよ……。どこで売ってんだ、それ? と思った。今現在そういったジーンズを売っている店があるとすれば、スーパーの2階より上にある衣料品売り場くらいしか思いつかない。いや、そんなことに思いを馳せる迄もない。オッサンは何年も、もしかしたら何十年もそのジーンズを穿き続けているに違いない。駅近辺を歩く。物凄い肩パッドが入った原色スーツを着て、ティッシュオフもしていないことが安易に想像できるフューシャピンクの口紅を、唇の輪郭よりも明らかに小さく引いたオバハンを見かける。別に上記の例として挙げたふたりが特殊なのではない。自分にとっての、旬の時代を未だに引きずったファッションをしているオッサン・オバハンが大変に多いのだ。もっと判り易い例を挙げれば、カネコイサオ系の恰好をして街を闊歩している白塗りのオバハン。アレだ。
年齢を重ねる毎に容姿は変わり、似合う物も変わってくる。流行り廃りなどではなく、もっと単純な話である。ファッションメーカーは日々増減し、昔に比べて選択の幅はかなり広がっている。その中で今の自分に似合う物を探すことこそが大事なのだ。全盛期の自分が一番素敵だったと、その頃の自分にしがみついているのは非常にみっともない話であり、傍から見ている者にも恥ずかしさを覚えさせる。その恥ずかしさは、その者が自分の変化・成長に対応し切れていないチャイルディッシュさが与える物だ。歳を重ねることとは、経験を積みそれを基に成長していくことである。その成長を衰えとしか捉えられない者もいる。違うのだ。確かに歳を取れば皺も増え、身体も弛む。しかし内面は豊かになっている筈なのだ。その内面を堂々と表現できるファッションをできている大人は素敵である。
前に書いた、私が以前の職場で知り合った尊敬できる女性。第2の母親と勝手に心の中で思わせてもらっている女性。彼女はいつも歳相応のファッションをしていた。それは私の年代からしたら無条件にセンスがいいと褒められる物ではなかったが、悪趣味という訳でもなかった。彼女には似合っていた。彼女の内面の輝きを最大限に引き出すファッションをしていた。それは簡単なようでいて、実は難しいことである。私の母親も自身に似合う恰好を心得ている。しかしそれが歳相応かどうかと問われれば、答えに詰まってしまう。似合っているから良しと言えばそれまでだが、年齢相応・内面の表現・センスの全てを網羅したファッションはともかく難しい。上の段落で例として挙げたようなズレた者たちは、これら全てを実現できていない悪い例である。私たちの年代の多くの人間は、そのような悪い例の人々を反面教師にファッションを模索している。
有名人の中で、いい歳の取り方をしているなと思わせてくれる人たちがいる。人によって評価は変わるであろうが、私にとっては判り易い例として挙げるなら、広末涼子・菅野美穂・永作博美・深津絵里らがそうである。彼女らは若い時分から芸能界に身を置き、視聴者らは10代からの20代・30代となった彼女らの変遷を見てきている。私もその視聴者のひとりだ。彼女らのファッションは、そのときそのときの自分を上手に表現できていると思う。その陰にスタイリストの力が存在しているのは承知だ。言い換えれば、スタイリストにも彼女らの人生・個性などが理解されているのだろう。逆の例となる人たちもいる。敢えて名前を出しはしないが、人生を反映していない若作りの恰好や、個性が活かせていない野暮ったい恰好をしている人たち。そういう人を目にしてしまうと、笑いを通り越して悲しくなってきてしまう。見た目でも芸でも、特筆すべき何かがあってその世界に身を置いている筈なのに、それらが自己表現であるファッションでも活かせていないならば、意味が半減してしまうではないか。
20代後半。私は今、ファッションやメイクに於いての曲がり角に差し掛かっている。気を付けないと恥ずかしい大人の見本になってしまう。ましてや私の好みは若作りと捉えられかねない物である。フリルやティアードスカートが好きだと前に書いた。危険アイテムである。フリルと括られる形状にもいろいろあり、気を付けて選ばねばならない。ティアードスカートも然り。素材や色や柄に気を遣わなければならない。メイクに於いてブルーベースと判明したことにより、似合う色が判ったのはいい。けれどバリエーションを広げる必要がある。これらを怠ったが最後、他者に、この人の全盛期はこうだったのね……、という印象を与えてしまう。かといって先走って落ち着き過ぎた色や形状に頼る恰好はしたくない。そもそも落ち着き過ぎた恰好は好みではないので、自分自身が楽しくなく意味がない。自身でも楽しみつつ、歳相応のお洒落ができるのが理想である。
よく、○○は△歳迄または△歳からのブランドだ、などと言っている人がいる。視野が狭いと思う。印象だけで物事を語るのは危険だ。ブランド傾向としてターゲットの年齢層はあるだろう。それでも全ての商品が、その傾向に沿っているとは限らない。いろいろな物を見、いろいろな意見を取り入れ、その中で自分の意に沿った物を取り入れれば良い。また歳相応ではないアイテムとされるものであっても、その1着のみを身に付けて外に出る人はいない。それがワンピースだったとしても、靴下やストッキング、靴、鞄なども共に身に付けるだろうし、上にジャケットやコートやカーディガンを羽織ることもできる。全て含めてのバランスが取れていれば、その中に歳相応ではないアイテムを馴染ませることは可能である。似合う・似合わせるとはそういうことではないだろうか。私の親は50代半ばだが、オゾンの全面プリントジーンズを穿いていたりする。明らかにオゾンのターゲット層から外れている年齢だ。それでもトップスや小物で上手くバランスを取っている。流石は京都の着道楽。表情と同様に、ファッションにも人生経験は滲み出る。心身の成長を衰えと捉えてしまうと、人生はつまらなくなると思う。私は諸事情により今尚、心は成長過程にある。上手く成長し、上手く言葉で恰好で表現できるようになりたい。それが叶ったときこそ、私は堂々と胸を張って、大人になれた、と言えるときだと考えている。
BGM/「羽根物人生」「暗い日曜日」「遺言状放送」など
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