夏の日
2003年10月5日 家族・メンヘル・健康など これを記しているのは11月14日。
数年前の夏、母方の実家に親・父親・うちの・私の4人で帰省した。確か3泊4日くらいだったと思う。うちのを連れて行くのは初めてだった。田舎には存命していた祖父と祖母、親の妹夫婦とその子供ふたりがきていたと記憶している。着くなり私はうちのを誘って山道を散歩した。親のいるその場に留まることに息苦しさを感じたからだ。母方の実家は文字通りの田舎であり、山や川や田んぼに囲まれ、車で10分も行けば海がある場所。山沿いに続く道をうちのとふたりで手を繋いで歩いた。付近の説明や子供の頃の思い出話を、うちのに語った。うちのも自分の実家の方の風景を語ってくれた。澄んだ空気。和やかな雰囲気。永久に続きそうな穏やかな自然の中、人っ子ひとりいない道を延々歩いた。かなり歩いた先の橋で折り返した。その橋で昔、蛍がいて親に採ってくれるよう頼んだけれど蛇だったら怖いからと断られた、という笑い話をした。帰りもゆっくりと歩いた。ずっとこの道が続けばいいのにと思った。鮮明な記憶。
この先、私の記憶は途切れている。誰と何を話し、何を食べ、どこに行ったかが曖昧な蜉蝣のようになっている。なので話は帰宅の前日に飛ぶ。私は台所の食卓で母親の対面で小さくなっていた。私の何かが母親の琴線に触れて怒られたのだ。原因は思い出せないが、とにかく親は怒っていた。いつも通りに人格全否定が続いた。幼少時から母親の怒り方は変わらない。今でも怒るときは人格全否定だ。私が言葉を挟む隙もないスピードでとにかく捲くし立てる。言ったもん勝ち、と言わんばかりの口撃。私はよくも悪くもマイペースな人間であり、自分よりもハイペースな他者や物事には飲まれ易い。なので怒られるときは小さくなって黙っているしかない。それでも責められる。何かを言えば激昂され、黙っていれば何とか言えと怒鳴られる。どちらにしても怒られることに変わりないので、私は小さくなって黙って泣きながら時が過ぎるのを待つしか術がなかった。このとき、祖父と祖母がどこにいたかは覚えていない。父親とうちの、母方の妹とその子供たちは居間にいたと記憶している。誰も母親を止めにはこなかった。母親が力尽きて私が解放されてから、父親とうちのが別々に、あそこ迄言わなくてもなあ……、と慰めてくれた。そう思って聞いていたならば途中で止めにきてくれ、と思った。無駄な思い。父親は親の腰巾着であり、その場ではうちのはあくまで余所者だったから。親の妹も、親に一旦火がつくとどうしようもないことを知っているので放置するしかない。私はいつも親の何かの捌け口にされ、後で慰められたり不憫がられるばかりだった。実の父親は腰巾着ではなかったが、母親が怒り出したときの対応は同じだった。私はスケープゴートだ。絶縁しない限り、スケープゴートとしての人生は続く。一昨日、父親がこう言っていたと聞いた「あの楽しかった夏の日は何だったんだ」。
そうか。父親にとっては楽しい帰省だったのか。私の記憶の中では、最初の30分程度のうちのとの散歩の時間を除いては苦痛しか残っていない。同じ時と場所で過ごしていながらも、人によってこうも記憶は違うのか。父親の言葉を私に伝えた親自身も、楽しかった日々と記憶されているのだろうか。きっとそうだろう。親・父親両者の記憶から、私が苦痛としか感じなかった時間は消去されているらしい。親の妹とその子供たちがどう記憶しているかは判らない。うちのは私のあのつらかった時間を、共有してくれている。「よくあの親の下でここ迄育ったな」「俺だったら黒猫の母親と3日過ごすのも無理だ」。うちのがこう言ってくれたとき、私はとても嬉しかった。やっと気持ちを共有してくれる人が現れたことに感激した。うちのが3日過ごすのも無理だ、と言う相手と私は21年暮らしたのだ。その後、家は出たが関わりは続いていた。絶縁という言葉には、悲壮な響きがあるとは思う。けれど私にとっては、開放を意味する聖なる言葉だ。
これ迄、他者に親の話をすると面白がられていた。そりゃあ面白いだろう。こんなトンデモな人間はそうそういない。私だってこんな親の話を他者から聞いたら面白いと思う。他者の親だからという条件の下に。面白いと思えるのは関わらずに済んでいる他人だからだ。関わったが最後、面白いなどと言っている余裕は一切なくなる。私の諸事情や類似する他の諸事情の症状のひとつに、巻き込み、というものがある。親の行為の諸々はその、巻き込み、に値する。最も巻き込まれてきたのが私。今、巻き込まれているのは私とうちのと父親だ。親に巻き込み症状の自覚はない。解らせようにも無理だった。ならば、巻き込まれたことに気付いた者たちが足掻いてそこから脱するしかない。この巻き込みに関わった人間が、取り巻きと化すのもよくある例であり、父親はそのひとりだ。こちらも自覚させるのは困難そうだ。それに私にはもう、ふたりに自覚させる気力も必要もない。自分が足掻いて脱することが最優先。絶縁とはこういうことだ。
今の私に生存本能は殆どない。種族保存本能は皆無。なのに防衛本能だけが盛んに働く。今更何も防衛するべきものなどないのに、どうしてだか働いている。生きる為の体力温存か、巻き込まれからの逃避かは判らないが、過眠期に突入している。ひたすら眠い。眠っても安眠はできない。今朝も悪夢2本立てで目が覚めた。きっとまた寝ても見るのは悪夢だろう。けれど、眠い。眠くて堪らない。今夜がうちのとの最後の話し合いになるかもしれない。明日は親との最後の話し合いになるかもしれない。寝ている場合ではないのに眠い。眠剤も飲んでいないのにこの眠さは何なんだ。激動。混乱。困惑。懐古。惰眠。泪。
数年前の夏、母方の実家に親・父親・うちの・私の4人で帰省した。確か3泊4日くらいだったと思う。うちのを連れて行くのは初めてだった。田舎には存命していた祖父と祖母、親の妹夫婦とその子供ふたりがきていたと記憶している。着くなり私はうちのを誘って山道を散歩した。親のいるその場に留まることに息苦しさを感じたからだ。母方の実家は文字通りの田舎であり、山や川や田んぼに囲まれ、車で10分も行けば海がある場所。山沿いに続く道をうちのとふたりで手を繋いで歩いた。付近の説明や子供の頃の思い出話を、うちのに語った。うちのも自分の実家の方の風景を語ってくれた。澄んだ空気。和やかな雰囲気。永久に続きそうな穏やかな自然の中、人っ子ひとりいない道を延々歩いた。かなり歩いた先の橋で折り返した。その橋で昔、蛍がいて親に採ってくれるよう頼んだけれど蛇だったら怖いからと断られた、という笑い話をした。帰りもゆっくりと歩いた。ずっとこの道が続けばいいのにと思った。鮮明な記憶。
この先、私の記憶は途切れている。誰と何を話し、何を食べ、どこに行ったかが曖昧な蜉蝣のようになっている。なので話は帰宅の前日に飛ぶ。私は台所の食卓で母親の対面で小さくなっていた。私の何かが母親の琴線に触れて怒られたのだ。原因は思い出せないが、とにかく親は怒っていた。いつも通りに人格全否定が続いた。幼少時から母親の怒り方は変わらない。今でも怒るときは人格全否定だ。私が言葉を挟む隙もないスピードでとにかく捲くし立てる。言ったもん勝ち、と言わんばかりの口撃。私はよくも悪くもマイペースな人間であり、自分よりもハイペースな他者や物事には飲まれ易い。なので怒られるときは小さくなって黙っているしかない。それでも責められる。何かを言えば激昂され、黙っていれば何とか言えと怒鳴られる。どちらにしても怒られることに変わりないので、私は小さくなって黙って泣きながら時が過ぎるのを待つしか術がなかった。このとき、祖父と祖母がどこにいたかは覚えていない。父親とうちの、母方の妹とその子供たちは居間にいたと記憶している。誰も母親を止めにはこなかった。母親が力尽きて私が解放されてから、父親とうちのが別々に、あそこ迄言わなくてもなあ……、と慰めてくれた。そう思って聞いていたならば途中で止めにきてくれ、と思った。無駄な思い。父親は親の腰巾着であり、その場ではうちのはあくまで余所者だったから。親の妹も、親に一旦火がつくとどうしようもないことを知っているので放置するしかない。私はいつも親の何かの捌け口にされ、後で慰められたり不憫がられるばかりだった。実の父親は腰巾着ではなかったが、母親が怒り出したときの対応は同じだった。私はスケープゴートだ。絶縁しない限り、スケープゴートとしての人生は続く。一昨日、父親がこう言っていたと聞いた「あの楽しかった夏の日は何だったんだ」。
そうか。父親にとっては楽しい帰省だったのか。私の記憶の中では、最初の30分程度のうちのとの散歩の時間を除いては苦痛しか残っていない。同じ時と場所で過ごしていながらも、人によってこうも記憶は違うのか。父親の言葉を私に伝えた親自身も、楽しかった日々と記憶されているのだろうか。きっとそうだろう。親・父親両者の記憶から、私が苦痛としか感じなかった時間は消去されているらしい。親の妹とその子供たちがどう記憶しているかは判らない。うちのは私のあのつらかった時間を、共有してくれている。「よくあの親の下でここ迄育ったな」「俺だったら黒猫の母親と3日過ごすのも無理だ」。うちのがこう言ってくれたとき、私はとても嬉しかった。やっと気持ちを共有してくれる人が現れたことに感激した。うちのが3日過ごすのも無理だ、と言う相手と私は21年暮らしたのだ。その後、家は出たが関わりは続いていた。絶縁という言葉には、悲壮な響きがあるとは思う。けれど私にとっては、開放を意味する聖なる言葉だ。
これ迄、他者に親の話をすると面白がられていた。そりゃあ面白いだろう。こんなトンデモな人間はそうそういない。私だってこんな親の話を他者から聞いたら面白いと思う。他者の親だからという条件の下に。面白いと思えるのは関わらずに済んでいる他人だからだ。関わったが最後、面白いなどと言っている余裕は一切なくなる。私の諸事情や類似する他の諸事情の症状のひとつに、巻き込み、というものがある。親の行為の諸々はその、巻き込み、に値する。最も巻き込まれてきたのが私。今、巻き込まれているのは私とうちのと父親だ。親に巻き込み症状の自覚はない。解らせようにも無理だった。ならば、巻き込まれたことに気付いた者たちが足掻いてそこから脱するしかない。この巻き込みに関わった人間が、取り巻きと化すのもよくある例であり、父親はそのひとりだ。こちらも自覚させるのは困難そうだ。それに私にはもう、ふたりに自覚させる気力も必要もない。自分が足掻いて脱することが最優先。絶縁とはこういうことだ。
今の私に生存本能は殆どない。種族保存本能は皆無。なのに防衛本能だけが盛んに働く。今更何も防衛するべきものなどないのに、どうしてだか働いている。生きる為の体力温存か、巻き込まれからの逃避かは判らないが、過眠期に突入している。ひたすら眠い。眠っても安眠はできない。今朝も悪夢2本立てで目が覚めた。きっとまた寝ても見るのは悪夢だろう。けれど、眠い。眠くて堪らない。今夜がうちのとの最後の話し合いになるかもしれない。明日は親との最後の話し合いになるかもしれない。寝ている場合ではないのに眠い。眠剤も飲んでいないのにこの眠さは何なんだ。激動。混乱。困惑。懐古。惰眠。泪。
コメント