現在12月13日。

 この世には沢山の褒め言葉というものが存在している。そして同じように沢山の褒め言葉の後に続く言葉というものもある。その中で、本気で激しくげんなりうんざりする程に嫌いな言葉がひとつある。褒めた後に付けられる、やればできるじゃない。子供の頃から大人になって迄、本当にいろんな人に言われてきた。そして毎回毎回、それを付けるならば褒められなくて結構! というくらい腹が立った。今も腹が立つ。この感情に同調してくれる人に出会ったことがない。何故皆、平気で受け止められるんだろう。莫迦にされていることに、莫迦に褒められてしまったことに気付かないのか。チャート式で詳細解説。
・その1
やればできるじゃない

今迄は手抜きしていたんだな、と思われた

過去の自分を見縊られている
・その2
やればできるじゃない

さも相手の能力を前以って見極めていたような、上に立った物言い

あんたは何様なんだ、あんたはなんぼのもんなんだ
 こういうことを他者は考えないのだろうか。私は毎回、やればできるじゃない、という言葉を聞くと、このような図式で腹が立って仕方がなくなり、言ってきた相手を莫迦と認識し軽蔑するようになる。

 その1・その2の共通点は、相手が自分よりも上からの視点でものを言っている、と私が認識しているところだ。私の性格を犬寄りか猫寄りかと問われたら、猫寄りだと答える。先日見ていたテレビ番組で、猫の能力について解説していた。世間一般では犬よりも猫の方が頭が悪いと思われているが、それは嘘だという解説と検証。犬>猫の式は、芸を覚えるかどうかが肝である。犬はお手やおかわりやお座りなどの芸を覚えるが、猫は覚えない。その理由について話していた。犬と猫の脳比率はほぼ変わらないらしい。因って根気よく教え込めば、猫もそれらの芸を覚える。では何故猫に芸を教え込むときに、犬に教えるとき以上の根気が必要なのか。それは犬と猫の生活体系の違いに起因する。犬は群れて行動する動物であり、群れの中のリーダーに従う習性がある。対して猫は群れずに行動する為、リーダーに従う必要がなく、自分の気の向くままに動く習性だからであり、猫には基本的に誰かに従う気がない→芸を覚える気が更々ない、という話だっだ。自分で自分を、やりゃできるんだなー、と思うのはいい。それは自身のことだからだ。ここ数日の大掃除や夕食作製で、私は自身を凄いと褒めた。そして普段が怠け者であることのへ言い訳抜きに、やりゃできるんだよ、と思った。私は個人行動を好む。リーダーの存在は不要だし、自分がリーダーになることも余り好まない。因ってもし他者に、やればできるじゃない、と言われたら即軽蔑。この言葉への私の気持ちを同調はしないながらも知っている友人知人は、私にこの言葉を投げかけてはこない。元々この言葉について話をする前から、そんなことは言ってこない礼儀を弁えた連中たちである。そうでなければ仲良くなどなれはしない。

 同様に、〜〜してあげる、という物言いも嫌いだ。あげる、が付いた時点で上に立った物言いであり且つ媚び及び施しをしている自分に酔っている姿が見られるからである。物事は、したいからする、が基本だと私は考えている。なので、〜〜してあげる、などという発想そのものが卑しく感じるし、そんな卑しい発想は私にはない。例えば。私は、ビールを持ってこようか、という言い方をする。ビールを持ってきてあげようか、とは決して言わない。持ってきてあげようか、という言葉には自主性が薄い。恩着せがましい物言いも、相手の能力を見切っているかのような物言いと同じくらいに嫌いだ。両方共に、自身への酔いを感じる。やればできるじゃない、には、相手の能力を知り尽くしている自分の他者を見る目への酔い、〜〜してあげる、には、尽くす自分への酔いを強く感じる。酔っていいのはアルコールのみ。アルコール以外の酔いは乗り物酔いも自分への酔いも全て醜態。見苦しいこと、この上ない。私も本当に親しい相手と話しているときにのみ、自分に酔った物言いをすることはあるが、やはり後で見苦しかったなあ、と反省することになるので必ず道化つつである。三半規管が弱いので乗り物酔いをし易い。長時間、苦手な乗り物に乗るときは酔い止め薬必須。醜態はできる限り晒したくない大和撫子。

 それにしても何故人はそんなにも相手よりも上位に立ちたがるのだろう。万札の顔としか諭吉を知らんのか。と書きつつも、諭吉の言ったことは所詮理想論だと解ってはいる。私は諭吉よりも仏陀の方が好きだ。天上天下唯我独尊。ここが夢か現かの区別は相変わらず付いていないが、それでも私は我である。離人症状が最近減ってきたようで、私のこのもの性は今、安定しつつある。これが安定しつつ、から、安定、に落ち着くか、また離人症状が出るかは不明。ともかく、上位に立ちたがる理由。実は解っている。自分が他者よりも上位にいると認識することで、人は安心感を得られるからだ。これは歴史も証明している。海外では黒人奴隷制度、日本では士農工商穢多非人。河原乞食と呼ばれた人々もいた。余談。河原乞食の中には日本の古典芸能の祖となっている人もいる。現代日本では、穢多非人や河原乞食がいた地域は未だに部落と呼ばれ、平民制度以後も根強く残っている為に部落解放同盟なども存在している。この団体の存在意義の是非はさておき。皇室が差別主義の根底という説もさておき。もっと身近なところに話を寄せる。義務教育段階では、運動が苦手な者が蔑まれる傾向があった。義務教育以降の学生では偏差値の低い者が蔑まれる傾向にあった。50m走のタイムの1秒、偏差値の1や2の違いが異常に重視され、実際のところ、その程度の数字の違いは大差ないというのに、多くの者に異様な拘りが見られた。社会に出てからは仕事の能力や容姿などが重視され、子供の頃と同様に大差がなくても、ほんの少し勝っているだけで途端に上位ぶりたがる人間が非常に多くいる。この上位ぶりたがる最も身近な例が、上記のような、やればできるじゃない、〜〜してあげる、だと私は思っている。これらの物言いをする他者が存在する限り、私の考えは変わらないであろう。しかし私の中でも他者よりも上位に立つ自分を認識することで、安心感を覚える部分が存在している。それはまた長くなるので、日付を変えて書くこととする。

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